国包駅
(三木鉄道・くにかね) 2007年5月
厄神から乗り、さっそく国包という駅で降りた。運賃を入れようとしても、運転士はありがとうございましたとは言うものの、がんとしてこちらを見ようとしないものだから、堅い人なのかと思った。そうして薫風の中、降り立つ。駅も小さく、まだ三木線は始まったばかりという感じがひしひしとしてきた。ここはもし厄神から歩くとすると遠回りになりやすいところで、列車が便利だった。それで下車したというのもあった。けれども初めから歩くのもおもしろくなかったこともあった。
三木線は主に加古川の支流美嚢川 (みのうがわ) に並走するのだが、この国包というところはまだ加古川の流域で、左岸だった。数キロ走れば三木線本領を発揮する美嚢川の流域に出るのに、それまでに早くも本式の駅があって、末端線の感じが強かった。
ホームから見た駅舎。
国鉄時代からの駅名標。転換後できた宗佐駅が上書きされている。
厄神方面を望む。
三木方に眺めたホームの風景。
駅名標と駅舎。白線が細い。
もうかなり傷んでいる。
トイレ込みのセットとなっていた。あの真ん中の扉はものすごい気密らしい感じを想像させる。
ホーム三木方端にて三木方面。
公園にありそうなベンチがあった。
ホームから見える風景。農耕地。
三木方を望む。
厄神方に見たホーム全景。
あの埋め込んだ駅名表示は、
汎用タイプの駅舎であることを物語っていそうだった。
畑が見える一つのホームから、白塗りの石の塊を穿った駅舎に入ったが、目を剥いた。汚損し、荒廃を尽くしている。そうか。 廃線前となると、駅はこんななっているんだ。そう発見した気になる。外壁も確かに傷んでいたが、中も、壁や天井や椅子が、すっかり汚れ、変色している。どれも未来的なデザインだ。しかし今では古くさく見え、それがよけいに物悲しさを誘っていた。
かなりの気密。くすんだガラスのせいで弱くなった陽射しが、死へ誘い、その黒い壁に、希望や、より良い明日、発展、永続の遺骸を見せた。
駅舎内の様子。
入るときいい心地はしなかった。
未来的だったデザインも今は古くさく見える。
各駅の列車時刻表。
学校に置いてあるような感じの机がこんなところに。
参考、運賃表。
駅を出た光景。
駅舎内によって襲われた気がしつつ、早々に駅から出ると、なんと瑣末な集落のただ中ではないか。歩いてみても、駅前文化らしいものはなかった。駅のすぐ右脇に、家族で営んでいる感じの仕事場があり、トラックの荷台から下ろしていた。駅はあってないようなもののような感じだった。一瞬だけ目が合う。すいません、遊びに来ました。どうせまたこの鉄道目当てなんでしょ、わかるよ。
街灯や窓の付け方がやはり科学時代風で、できたころは、こんな末端線も、イメージの乏しい適当な未来を担わされていたのかと、考えるほど、あたりは民家であった。
左を向いても一集落。
国包駅駅舎。
街灯や、2つの階段、窓にご注目。
窓が昔のテレビ見たい。
駅舎遠景。
通りに出て。鉄道で言うと厄神方。
三木方面の道。
さて、ここから播州平野歩きがはじまる。下車もいいのだが、この三木鉄道は民間に転換後、駅が増やされ駅間距離が短く、次の駅まで列車を待つのに、もどかしさが想像され、歩いて移動する予定にした。駅での時間が適切になるよう折り返しを考えるのも、ここではこまごまとしていて気乗りしなかった。もうこれは沿線を歩くいい機会だ。気持ちを高ぶらせつつ、駅から歩きだし、集落の細い本道に出た。
遠回りのように踏切まで出て、そこからさっきの駅が近く望める。これはホームの端から歩く人もいそうな構図だ。踏切を越すと、ここはちょっとしたものだったがさっそく待望の平野と出会えた。望むと、三木線はぐうんと独り平野に伸びて、この道路から離れていく。鉄道曲線か。しばし三木線とは別れて、道路を歩こう。
踏切から見た国包駅。
踏切にて宗佐方面を望む。
短いといえどもちゃんとした鉄道。
道を歩いて。色づいた小麦畑。
国包駅の方を振り返って。
とある民家。いろいろホーローが貼ってある。
いよいよ平野に出た、その畑越しに見た三木鉄道線。
15分ほど歩いて、宗佐という別の集落に入るころには、少し自動車が増え、道も前から広くなっていた。この辺に来て、地形図を慎重に読みはじめる。駅への道だから目立つはずと思っていたのだが、それらしいものがない。地図に拠って、水準点のあるところを左に入った。
本当にこの道かと思うようなありきたりな集落への道だったが、やがて踏切が現れ、
ホームだけの宗佐という駅が見えた。
宗佐駅への脇道に入る少し手前にて。向こうの方が坂道になっているが、そこまでは行かない。
こんなに錆びたトタンの建物もあるんだ…。
ほかのパターンもあるのだという。
目印の一等水準点。ここを左折した。
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