南高田駅
(信越本線・みなみたかだ) 2009年9月
お昼下がりに南高田に降り着いた。九月でほんのりと蒸し暑い。台風による擾乱があったが、それも遠のいて遠く海側から晴れはじめたころだった。ホームも一つだけなので、下車旅するには気楽なところだ。地の名もあり、ともかくそれで明るい気持ちだったが、銀のハンドルがずらっと並び、せわしない狭い道やストアのある雰囲気が、ホームに居ながらにしてそのまま体にあたってくるようなところなので、天気の良くなった気候も相まってどっと疲れまさり、観光とそうでないものが明確に分かれていた長野を思い出した。東側は、そういうことはよくあることかもしれない。
こんなところにいると、なぜ海の方に出ないか、あるいは妙高にでも行かないかと詰問されそうだった。せっかくの親族の食事会に大衆食堂を選ぶ人はいまい。
学校も早くひけたようだ。それも九月らしいところだった。
暑苦しいカッター、リスタートされる競争、いいことを思い出せない。
しかし人生に内在する旅の中での町は、こんなふうに批評という観念を忘れてしまうほどのもので、ときにいらだたしげで、雑多で、そう考えると、嫉妬のせいもありときにはみにくくさえみえるものだ。駅や駅前などどうでもよいといえるときがもう来なくてはならない、そう言われている気がして、また、新潟らしい険しい目つきの車掌に煽られるようで、私は独り、いえ海に来たのです、そのつもりで…ではなぜこんなところにいるのか?…
私はわかりやすいように典型的な鉄道趣味の男性をキャラクターを借りようとした。いかにもそれだけが好きなのだというような。しかしそんなことで騙せるものではなかった。
しかしこうしてホームから街の空気を受け取っていると、私が何気なしに自分自身の道について夢中だったときの見え方の町を見ている気がし、やがてこの風景が私の心の中で芽ぐんでいきそうな感じがする、そんな駅であった。