妙高高原駅
(信越本線・みょうこうこうげん) 2009年9月
左:新潟支社は全部この椅子に換えたようだ。
右:コインロッカー有。スキー場で有名なくらいだから他の施設にもあるのだろう。
左:地元の人の作品が飾られています。
右:こんなところにも商品が。
妙高
古びた特急の車内の、横長の窓に流れるみどりが深くなったのに気付いた。黄変した座席に深々と頭をもたせ掛け、それに気づいても 速度でみどり色のこすられたような描写を、眼だけぎょろりと動かして見やったKは、いらだたしげで痩せこけ、白っぽい顔をしている青年だった。関山といういかにもなところを過ぎると、いよいよ海抜が高まるらしく、「山のせいもあるのか?」と頭の中をちりちりさせながらKは自問していると、ふとはす向かいの老人が、「みょうこう、みょうこう、みょうこ、妙子………たえ子!」と独りごち、最後の方は大きな声で、誰もに聞こえるほどだった。すると細君が「お父さん、静かにしてください。妙高山は、そんなにやさしい山じゃないんですよ。」 老人はトーンを変えず、痰の詰まったようながらがらの声で、「毎年誰かは死んどるからなぁ!」 憚りなく老人がそういうと、周りの者はみんな奇異な視線を送った。それからも老人は、みょう子、とか、たえ子、などと繰り返し、うーん、などと唸っていた。Kだけでなくみんなもう相手にしなかった。
特急列車が妙高高原駅に着こうしている。西国から何時間もかけてここまで来たKも、もうそろそろというころになって、荷物を網棚から下ろし、流れゆく緑の景色と別れ、狭苦しいデッキへと入っていった。デッキへ出ると、出たときに使った客室扉に焦げ茶の透明板がはめてあるのに気付き、その透明板越しに客室の客はモノトーンになって高級らしさがあったが(これは御簾とか黒子の置き換えなのかもしれない)、駅に着いても、おれを高級扱いしてくれるだろうか? という疑問が、Kには思い浮かんだ。「もししてくれなかったら、足で踏みにじってやる!」。 「いや、こんなのは戯言だ。そんなのは期待していないよ。ただね、目をつむって降りたいのだ」などとわけのわからないことを頭の過で吐いていると、デッキにいる友達連れみたいなのが、着いてからのことを、睦ましく語り合っているのが狭いところだけに妙によく聞き取れた。そのことで怒りで静かに切れる間もなく、すぐにデッキの窓の流れはすっと止まり、Kたちは片扉から吐き出された。客室から続いて出て来る奴もあった。「なんで俺はあらかじめデッキに陣取っていたんだろうね!」 しかしKは片扉であることに疑問を感じた。高級でないものが、高級になるその一例のように考えられた。一人一人を認知させるためで、我々客らを大事に車体の鋼板と風景をよく見せる青く長いガラス窓で守っているためなんだ、と年齢に少しも似合わない、子供っぽい考えにKは、達する。プラットホームに出た客は、改札口にたどり着くまでそうして少しの間 無防備になり、ときおり現れる、中で明かりが点くホテルの広告とか、高原の文字列とかで、とくに心を慰めることになるだろうと、Kは予期した。
プラットホームに降り立ったKはどさんと地上の疲れを感じた。電気的な轟音のやたらやかましいのに耳を包まれていると、ごついさっきの老人が細君に支えられて足元を不安定にして出てくる。老人は体ばかりがでかく、細君はその通りに枯れ枝のようだ。遠くの車掌が間(ま)を感じているのがわかる。わかるったらわかるのだ。どこかで秒数を数えているのだ。Kは老人が出た後、ちらとスキーウェアの男女が、何本も入った放熱スリットにすら氷雪のこびり付いた車体から降りてきて、ピエロそこのけに頭に玉を付けた毛糸の帽子の女がふいにそのドアの近くに立ち止まり、男にスナップを撮らせている幻影に、囚われはじめる。女は相変わらず何の厭いもなく通俗的にピースサインを作り、男は周りの人も気にせずやたらその女の笑顔を射止めようとする。Kはその片扉と薄墨の方向幕とを極めて憎々しげに見つめ、地面に唾でも吐き棄てんばかりだった。
しかし妙高高原駅は誰が降りてもおかしくなく、そうしても自然だと思われるような駅だった。名前からして、人に降りてほしそうではないか。もしこれがさっきの関山だとかで、また小さな駅だと、Kもたいそう躊躇し、脇目も振らず駅を出たらまっすぐタクシーに乗り込んで、まだ行先も、することも決まっていないのに、運転手に何かを言いつけて、孤高を保ったことだろう。
まだ特急の客でがやがやしているとき、上屋の軒端の古レールのようなところに特急の札が掛かり、その向こうにゲレンデやらリフトの遠景とともに、やたら濃い緑どもが目に重なってきた。もう列車はなく、客どものべつまくなししゃべりあいながら階段を昇るどんどんいう音が背後に聞こえてきている。小鳥が囀っている。スキーの季節は終わり、あたりを滅ぼさん勢いで緑が支配している。「なんだって俺はこんな季節に妙高に来たんだ」。 まだ特急の客が跨線橋を渡っているうちにと、Kは後を急いだ。跨線橋に上がると、最後の客がもう階段を降りようととしていた。さっきの老人だ。足早にKも続いて、本式のホームに着くと、またスキーの幻影に襲われはじめた。影が深く、例えば木造の階段の狭い脇などをスキー客が行き来したり、スキー具を立て掛けたりしている気がしたのだ! しかし眩暈を起こすより前に、Kはここで、まるで現実的な体の要求を感じた。トイレに行きたくなったのだ。しかしそれはスキーの幻影に囚われて、膀胱の冷えの引き起こす結果が観想的にトリガーされたのか、たまたま実際に膀胱が収縮したのか、わからない。ともすると、実際そうで、そのことによりスキーの幻影を呼び覚ましたともいえたかもしれないが、これはKの頭の中で、違うと厳しく反撃するところのものだった。Kとしてはできるなら特急の客に続いて改札を出、上客扱いしてもらわねば困るのだったが、外にトイレのないことを恐れ(駅員や周りの奴らに訊いたりするのはプライド上 耐えがたかった)、いささかためらいったものの、ついに思い切ってトイレに入った。ファスナーを下げる手がかじかみ、「また冬の日の幻影の奴が」とKは思ったが、むしろこれからしでかそうとしていることに、怯えているらしかった。また女とは違い、自分のが用を足すのにも用いられることに、誇りを覚えたことも思い出した。
トイレから出るとそれが冬造りの頑丈なものであることに気づいた。女を待たせているか、男を待たせている、出るとき、そんな映像を感じた。そして二人は肩に手を回して、周りから見たらイライラするくらいののろくさとした歩き方で、跨線橋の階段を昇っていくのだ!
Kは改札にスムーズに曲がっていくと、駅員に高貴に切符を投げ渡す。待合室なぞ、物産を隅に飾った陳腐なもので、Kの目には入らなかった。仮に豪勢にやり直しても、Kは軽蔑しただろう。今のKにはドアツードアがありさえすればよかったのだ。もっともそのことについて悩んではいて、なぜ各停の地元客のいるところや、旅行の一刹那としての風景に足を止めてしまうようなところを歩かなきゃならんのだ、と。Kとしても、そんな一刹那は気になるものではあったが、もっぱらやはり彼は、通俗を愛し、そしてその価値を大いに認めていて、だからと言って、彼自身、一粒子などと思ったことはなかった。そのような即物的ともいえる一刹那の補足によってこの世を傍観せずとも、Kにはもっと一大関心事があったのだ。もっともそれに囚われていなかったら、彼とて、どんな趣味に首を突っ込むかわからない、というのは、これはあくまで私のKに対する私見である。
さっきの老人はドアツードアで、タクシーに体を潜らせているところだった。くすんだ模様の女物のスーツを召して枯れ枝の夫人が後押ししている。タクシーは数秒間、息を止めた後、アクセルをかすかに響かし、ロウにつないで、すぐセカンドへもっていく。中では手際よくハンドルの左レバーをくねくね操ったことだろう。おもむろにタクシーはぬめったかのようだ。その発進の後には、排ガスというより、芳香が漂っていそうでさえあった。
こうしてKの眼前に、かつての思い出の妙高駅前が開けた。車一台とてなかったのに、土産物屋はあのときと同じ用に相変わらず店を開けている。やたらだだっ広いのは大型バスが寄り集まってくるからだが、そんなものは嘘のようになく、地面は鉄錆び色に焼け付き、罅割れ、どこにあの時の妙高高原はあるのかと思い、妙高高原の文字列さえ、ウソっぱちに思えた。しかしKは自意識過剰の男だ。駅舎を出たすぐのところで、何かこれから重要な要件をすまさねばならないような顔をして、何か独り言を言ったり、段取りを確認したりしている。Kはやがてまっすぐ道を渡り(といってもその道はそのものが広場みたいなものだったが)、ある賑やかな土産物屋へと入っていった。女将はいらっしゃいませ、と気のないような声をかける。店は露店のようにしてあるが、奥に入ることもできた。たとえそういう手前の方でも、こんなところに寄ったら何か買わずには出られなさそうだのに、Kは一向平気にしている。それどころか果物や飾り物を手に取り、元に戻しては鼻でふんと冷笑するのだった。女将はそっちの方は見もしなくなった。ほかに客も来たし、隣の土産物屋から懇意のおかみさんも朝の挨拶がてら商売の話をしに来てくれたからだ。それにKみたいな客、ほしいものがあったら勝手にもっていってもらってでも、さっさとどっかに行ってほしかった。
Kは一通りそんな変な演技をした後、といっても、こうすることで彼は過去の自分を冷笑していたという事情があったのだが、突然、女将のところに進み出てた。
「いらっしゃいませ。」
女将はKの顔より手元を見ていたのだが、Kは写真を一葉取り出し、
「すみませんが、この女を見かけませんでしたか。」
女将は急に気持ちが入れ替り、つぶらな瞳でKの顔と写真を少し交互に見てから、こんどは写真をじっくり見つめ、手に取った。しかし女将は思い当るところなどなかったので、、
「さぁ、わかりませんねぇ」。
女将は刑事か弁護士か、何かその辺の絡みかと思い、市民の義務を感じかけたが、Kの変なジャンパーや行動からして、万一そうであっても適当にしたらいいだろうとも思ったし、明らかに私用の感じだったから、問題はないだろうと思った。女将はトーンを変えて、若い人に対して言うように、顔をそらし品物を並べながら、
「人探しですかぁ?」
「ええ。冬来ればよかったんですけどね。こんなときに来てしまって。」
すると女将は、ちょっと聞いてきてあげるわね、といい、大声で、
「ねぇ、和子さん、なんかね、今人探ししてるんだって。」
といい、Kのもとに、合わせて三人が集まった。
婆さんの和子は写真を見ながら、、
「さぁ、誰だろね。この辺の人じゃないわねぇ。この辺というか、勤めてる人。」
と、人探しなどということに好奇心をそそられながら言う。
女将は、
「まぁね、ホテルなんかは入れ替わりが激しいからねぇ。ほら、冬んなると短期で来る人いっぱいいるでしょ。」
婆さんは
「あぁ、そうだねぇ。そういうのになるとわかんないね。」
「何年もかけてきてた胡桃さんとかなら、わかるけど」
「あの子去年来た?」
「来てない」
と女将つっんどんに言い、品物を整理する手を動かしている。
「ごめんねぇ、わからないわ」
と婆さんは言うと、
女将さんが
「彼女ですか?」
とにやにやして訊くので、Kは、
「いや、これはさる重要な案件でして。私はお遣いのものなんですよ。じゃ。ご協力ありがとう」
と最後まで言い終わらぬうちに、立ちそ去りつつあったが、後ろから、
「ねぇ、これ持っていきなよ!」
と売れ残りのジャム二瓶(これは長いこと客から避けられたものだった)を高く掲げたが、Kはそれを見ず、苦笑した顔を少しだけ向けただけで、片手を挙げ断わり、店を出た。にもかかわらず、そこまでしてくれなくても藻などと思っていたのだから、滑稽だ。
店の軒を出ると、Kの前にいささか皮肉にも爽やかに妙高高原駅前、が開けた。陸屋根の駅舎が、まるで圧雪されたかのように均一にひしゃげている。真ん中の部分は凹んでさえいるかもしれなかった。Kは何の気なしに、駅前のだだっろい広場を彷徨った。歩けば歩くほど、これがあのときの妙高だとは思えなくなった。歩くたびに、ズックの底に、氷雪の冷たさが伝わってこなければならぬと思った。そして坂を昇ったところで、あの、狂ったように食いつくす雪国の谷の緑を見下ろすことになり、Kは足元のアスファルトの崩れて砂の吹き出した砂のじゃりという音を聞くや、Kは気がおかしくなって、「あいつはどこにいるんだ! どこに妙高はあるんだ! 何もかもなくなったふりして、ここだって雪はまた降るんだぞ、ふざけるな!」と騒ぎたした。しかし、周りには誰もおらず、夏の場違いにのっぽの旅館が彼をのんきに見下ろすばかりだ。ロータリーとてばかでかかった。しかしそれも中央にしゃれた時計塔なんか配した、駅の隅っこにあるくらいのものだった。車もバスも何もありゃしない。Kはそのロータリーを回った。回り続けた。すると、向うの駅の隅の方の暗がりが気になりはじめた。そこへ赴いてみると、そこは天然木を使った冬季の臨時改札口で、今ではすっかり埃をかむり、除雪車がもう二度と使うことはないだろうとでも言いたげに、放棄されている。何もかもが、本当に遠い過去のことのようだった。もう二度と雪が降らないだろう、そのようにここでは認知されているかのようでさえあった。これだけ山では緑が繁茂し、駅前は雪づくりになっているのに、雪の日のあったことは忘れ、ずっとずっと、遠い日のことかのような歌を、歌っている。この臨時改札とて、今は野宿の奴がツェルトでも張ったり、犬の小便場所になっているようなところだった。Kはその木製の臨時改札の埃を、気を失わんばかりに呆然としながら指で掬い取った。すると再び足の裏のアスファルトから、ズックの底から冷たさが伝わってきて、突然、あの雪の日が眼前に開け出された。
シャンシャンシャンと押しなべてどのタクシーもバスも雰囲気づくりとして申し合わせたかのようにチェーンを巻き、青い窓ガラスのバスが夜更けに、ここに集合してくる。バスの中では、誰もが、一人残らず誰もが誰かと一緒で、または女を連れて、それぞれが、それぞれの世界に没入している。他人のことなど、眼に入りもしない。Kとて、それが当たり前だと思っていたし、それで当然だと思っていた。Kは自分の中の男を感じた。それ以外の一応の男は、蔑むというより、何か別の、変ないきものだった。その人らの何が楽しいのかと思った。あるいは、憐れまるべき対象かもしれなかった。Kは彼女のウェアの擦れる音や、香水の匂いがあったのを思い出す。そして厚着のウェアながら、覗いてみると項は顕わで、細かい産毛にほくろの埋もれているのを見た。Kは何気なしにそこに接吻する。彼女は、何やってんの、と言い放つや、金属の装飾具のたいそう着いたパンクなスキー手袋の甲面で彼の顔面を殴った。しかし彼女は笑っていた。Kは鼻の隅から血を流していたが、後になって彼女が気づいて、たいそう詫びてくれた。
そもそも彼がなぜ二人で行くのに妙高高原を選んだかというと、まだ昭和のころ、冬になるとKの住んでいる西側までテレビから妙高高原スキー場の宣伝がうるさく流れてきたものだからだった。Kにとっては子供のころのからの行ったことのない思い出の地だ。
Kは蹌踉としながら駅舎の出入り口に立ち、なぜ雪が降らないとここは思っているのだ、なぜ雪が降らないと思っているとおれにここは思わせるのだ、こんなに雪づくりなのに! と気のふれたように身振りをし、ときに身体をゆすってわめいた。タクシーからだけでなく、遠く向かいの土産物屋の女将も、心配そうに見つめはじめた。ついにはちょっとした騒ぎになり、初老の駅員が、駅務室から出てきて、しかし駅前にまでは出てこず、駅舎の中の改札口の前に立て、長袖をまくった太い腕を組み、少し離れて外とを隔てるガラス戸越しに、Kの様子を見守りはじめた。初老の駅員は、駅長で、菅原といったが、みんなからは菅さんと呼ばれ、努めていながらも遊民老人と看做されていた。菅さんは透明度の高いレンズの大きな眼鏡をかけ、髪の毛はほとんどなかったが側頭葉に白葱をささがいたように髪が生えている。頭はかなりに明るいファンデーションにある一種の色で、あるいはその通りに何らかのトニックらしき芳香を頭頂から放っていたらしかった。Kについては本当は加島といい、カトーといったが、みんなそう呼んでくれないので、Kで通していた。
やがてKは腕をだらりと下げて、駅舎の中に入ってきた。駅の中の人はたいがいが彼を注視していた。椅子に掛けている者の中には、ザックを下ろし、名産品を眺めていた三十半ばのクライミングパンツをはいた男もいたが、彼も視線をディスプレイの棚から外し、加島を見やっていた。入ってきたKはうなだれていて、誰の視線にも気づかず、突然力を失ったかのように、椅子に腰かけた。菅さんはとりあえずここに入ってきたんならいい、ということなのか、加島の方に一瞥をくれると、いったん改札を通り、そして外の扉から、駅務室へと収まった。途中、下車旅をしている20代はじめらしき男も入ってきたが、加島はなんも気づかなかった。
まだ改札の時刻ではないが、Kはよろめきながら、構内に這入ろうとした。菅さんもあえて止めなかった。考えがあったのだ。無言で菅原は入鋏すると、いったん改札ラッチ替わりりしていた雪国仕様と引き戸を引き(駅務室から操作できるように、錘つきワイヤが引き込んであった)、それから加島が長椅子に落ち着いたのを見計らって、菅さんはおもむろにプラットホームへの駅務室からの扉を使って、構内に出た。少し曇っているが、とりあえず今は夏だった。菅原も少し、季節の倒錯を覚えたが、健全な精神でそれを正し、まったく何気なく装って、ちりとりと箒を持ち、プラットホームを歩いて行った。Kは少しも気づかない。思いつめたように頭を垂らし、荷物を足下に置いている。菅原は彼はあまり思い切ったところのないやつだと見た。菅原はいったんまったく加島に用などないかのように近づき、そして背後を通り過ぎたが、くるりと彼の背を回って、Kの左側に、何気なしに腰を落ち着けた。Kは一瞬顔をまっすぐにしながら目を見開き、わずかにこちらに顔を向けたが、すべてを察したように、また前方だけに顔を向けた。
「どうだ。見つかったか。」
彼らの前方には、妙高の深い谷の緑が狂おしいまでに猛っている。いまでは何もかもが廃墟に見えるほどだ。リフトも、スキー場も、団体目当ての旅館も、あの玩具の焼夷弾でやられたか、隕石の絵みたいな赤茶けたのがところどころあるだだっ広い道路も、何もかもだ。リフトは鋼索や索塔、そして椅子台に平気に蔦が巻き付きそうで、大地が奪い返しそうだったし、何よりも鋼索を巻く滑車が、どこか賽の河原の回らぬ風車じみていて、あるいは単眼児への残酷なレクイエムのようで、気味が悪かった。この緑どもは、なぜ忘れていて平気なんだろう。今しかないといっても、こんなにも今を謳歌する必要があるだろうか?
「冬に来ればよかったんですけどね。でも…」
「…」
「どうしても来れなかったんですよ。」
加島ははぐらかすようにやや朗らかに言った。
「都合がつかなったとかで?」
菅原は引き出してしまうことにした。
「いや、来れなかったんですよ。まず来れなかった。」
加島は苦りきった。しばらくぼうっと前を眺めていたが、そうして意識しても見ていなかった眼前の景色が、不意に意識され出した。
「ねぇ駅長さん、なんで雪国は、今こうとなったら、雪の降ることをすっかり忘れたか、二度と降らないかのようなうつけた顔をしているんですか? もちろんこれは対策への非難などは違いますよ(わかりますよね?)。夏になると、まるで何もかも滅びたか勝利したかのようじゃないですか。あの臨時改札を見てくださいよ。もちろんここ数年は使っていなということもあるでしょうけど、およそ忘れ去られているじゃありませんか。」
「雪国はなぁ、二つの季節しかないんだ。思い切って言うと。雪と、雪解けと。特にどちらかに凝り固まっ季節のただ中にいるときはね。私らもね、今はまだ雪のことなんか考えもしないんだな。かといって、夏だからと謳うことにせわしくすることもない。しかし雪は必ず降り積るんだ。いやこれは、何もそんな遠い先のことを言っているんじゃなく、そういう文化パラダイムにいることを自覚しているということでね。いや、こんな言い方は、何かいやらしいね! 君はもっとそのままに見るといいよ。
それに、忘れているのは自然の方なんだむしろ。もし我々が忘れているように見えたとしたら、それはわれわれがここじゃそういう変化にすっかり包摂されているからなんだな。我々は自然に対して雪のことを忘れさせているともいえる、むろんそれは、どこも雪仕立てにすることで結果的にこういう夏の荒廃をもたらしたということでね。
われわれはむろん、それぞれの節目には やるべきことはやるけれどもだ、どれもとても自然なりゆきで執り行われてね。特にむやみに恐れたり、あるいはロマンチックの淡やかな期待をしたりもしないんだ。二つの季節しかないというけど、意外と季節はゆったり流れているよ。あと二三か月でここもまた降るけど、それは二三か月じゃないんだな。」
加島は怪訝な顔をした。
「雪は降らんように思えるかもしれんけど、それは君、君が自分の心をせっついて、慌てているからだよ、逆に。君は一年くらいはここにいたらいいんだな、はっはっはっ」
と笑うと、加島もまた雪が降る気がしてきて、ちっょと笑った。
菅原はとうに気づいていたのだが、加島にとっては申し合わせたように、突然、ゆっくりとゆっくと、重たい鋼の車体が、眼前の空間を、曲面に陥入するかのように現れたように見え、そしてまたあの轟然たる送風音の包まれるのを感じた。熱風か送られ、車齢の高い匂いがした。
「これ、うちでやるスキーの企画切符なんたけどね。郵送してくれたら、プレゼントさせてもらうよ。来年でもいい、いつでも有効だ。」
加島は驚いたが、気づくとサイン済みの申込書とパンフレットを手に取らされていた。
「あんなふうに気がふれちゃいかんよ! また妙高でいい思い出を作ってほしいんでね! あんなまま帰って羅もらったら困るんだ!」
凝然としながらも加島はもらった紙に丸々と見開いた目を落としつつデッキに足を運んだ。加島は老駅員菅原の方に顔を上げ、何か言おうとしたが、菅原はそれをすぐ遮るよう、左右の確認を取り、本来はもうその責務をまぬかれているが、安全確認の合図を車掌に、手を挙げて行った。Kは閉まったドアの窓に、崩れ落ちるように、会釈とも礼とも、項垂れともつかぬ姿態を示した。菅原は微笑んだまま俯くか、頷いたかの動きをし、列車を見送った後、嬉しげに小刻みに首を縦に振って、跨線橋を昇っていった。
駅務室に帰り着くと、平社員の若い平井田が、
「どうでした菅さん。どう?」
平井田はてっきり菅原は触車だけを心配して、掃除を装って監視をしに行ったのだと思っていた。
「いやね、毎年いるんだよ、ああいうのが! 毎年ね! 特にこの季節になったら、気がふれたようにふらふらしてさ。雪の日の幻影を追いかけているんだな。女だよ! まぁ毎年わんさかアベックが来るけどね、あんななってしまうのもいるんだな、まいったねぇ!」
「でもあんなことしていいんですか? 切符。」
「あぁ、いいの! どうせ私なんかまもなく滅びる側なんでね(お前とも違ってね)! んなもプールした金はいくらでもあるから、割引やら福利厚生やら、なんでも大盤振る舞いだ!」
経理を扱っている平井田は菅原が照れ隠しにそんなことを言っているのがすぐにわかった。
「まぁこれも仕事仕事。もっぱら私はこういう、その、心理カウンセリング的な仕事が忙しいんでね、ひひひ、平井田くん、午後も集計やってね。交代なしということで。もうこの歳になると目がなぁ」
そこへ客が切符を持ってやってきた。急に元の態度に戻って菅原は、ありがとうごどいますと淡泊に言って入鋏し、たった二つしかないホームなのに、乗り場をもの静かに案内する。平井田は切符予約引き継ぎバインダーを持ちながら、こちら側に立ったことも、そんなに悪くもないな、と改めて思いはじめた。
今日は曇り空、それでも暗いほどの旺盛な夏の緑の、たけなわに繁る谷が、あの月づきに凍てついたのりばと上屋の伽藍越しに、静かに猛っている。
(おわり)