中須田駅
(江差線・なかすだ) 2009年5月
暖流も果ててしまいそうな日本海側から離れて北海道南端の秘境的な山塊に向かって走るが、まだ山には入りこまず、豊かな平野のただ中に停車する。陽光が降り注ぎ、ホームに律義に停車しているかのような 待合室として使われている錆だらけの貨車の横に、汽車はちょうど停まった。外に出ると、冷涼な風が吹きすさんでいた。しかし日差しにやや力あり、あたりはどこもかしこも緑を謳歌している。平野の美しさもさることながら、丘のような低山帯の、とりわけ派手な自然林の黄緑色と植林の濃緑の対比が海藻のように鮮やかで、そのこんもりとしたさまは幾度も掌で撫でてやりたいくらいだ。そのかわり風に乾かされつつも、目でなぞる。あの森の中はどうなってんだろう。
上ノ国・江差方。
冬には防風柵に変わるのかもしれない。
駅名標。
ホームからの風景。魅惑の駅近…。
薪がぎっしりと。この辺りでは当たり前。
これが駅舎。
桂岡・湯ノ岱・木古内方。
冬は白一色、夏は緑一色。
日本海・上ノ国方。林業の営まれているのがわかる。
鉄の床の音を響かして陋舎たる貨車の中に立ち入ると、昨晩泊った桂岡という、この次にある駅とまったく同じ様態で長椅子三つだったが、こっちの駅の方が内装が少しましで、状態もよかった。なんだこっちで寝ればよかった。45リットルのごみ袋には山のように菓子のがわ や 空き缶が入っていて、周りの風景からはそんな物流が想像できないが、なんとどこで買って来たんだ、すしのパックとかもあり、怪訝な顔つきになる。いや、こんなところですしを食う道理がわからん…。これがいわゆる家庭ごみの持ち込みやとも思うが、どうもここで開封した感じが強く、
「だれかこの椅子に腰かけて一杯やりながら寿司食っただろ」。
でもこんななんもないところにまで、いろんな商品のごみがあるというのもやはり日本だなと。
駅舎の中へ。
貨車のテールランプには電球が入ったままだった。
駅を出て。
ここは桂岡よりも街寄りなのだが、こっちの方が人家は少なかった。広大な畑と新緑麗しき丘があるのみ。ちなみに自動販売機はない。
駅から出て道の北の方が見通しが悪かったので歩いてみると、ひと気のない山へと続いていて、その山の表面がなまじ萌えて明るいだけに、森の中が特に気になった。すこし歩いてみたが、周りはいぜん丘陵なれども山のもつ明るいけれどもさびしいという気配の送られてくるのが感じられて、不思議に惹きつけられた。
中須田駅駅舎、というより待合室。
ホームの裏手はこんななっている。
今にも動き出しそう? 道内あちこちで駅になっているこの貨車は貨物列車の最後尾に連結されていたもので、車掌が乗っていた。
人ん家の庭先にある。
一世代前の北海道らしい家。
農業水路。
湯ノ岱方。あのずっと向こうが内浦湾。
これはかなり窮屈そうに立っている。
左手駅。北。
踏切にて。
湯ノ岱・木古内方。
中須田駅。
こちらも湯ノ岱・木古内方。丁寧に車道外側線を矢印が上から指し示している。
桂岡で見た大平山(たいへいざん)。
駅舎2.
茂刈山(394m)の方に歩いて。
風が強いため、貨車で休む。正方形の二重窓からの陽射しがくっきり床に落としこまれてぬくかった。その窓のあたりから「こつっ、こつっ」という音がする。昨晩聞いたのと同じ音だ。あのときは昆虫の当たる音だと思っていたが、今、窓の近くに虫などまったくいない。それであのときの音は温度変化による貨車そのものの音だとわかったのだった。
それにしても貨車内はシャーペンによる落書きでびっしり。学校や恋愛に関するものばかりで、中には誰かが書き込んだ内容に、反対意見を書き込んだりもしてあり掲示板代わりだった。一部みだりに自分の携帯電話番号を記し、連絡ちょうだいなどとあって、あやしい。ぜんたいに、よほど暇で寂しがり屋だと思えた。それやこんなところでは誰かと関わっていないと落ち着かなくて仕方なくなるかもしれない。
珍しく旅人のものがあり 「10月ここに半そで半ズボンで来て駅寝したけど、二三度しかなく寒くて死にそうだった、でもがんばりました、ペンネーム *** 32才」など大書きしてあり、言葉を失った。いや、でも我々はいつまでたってもそんな子供みたいなものかもしれない。おもしろい人だ、けど、こんな壁なところに書くなよ…ほかの落書きからしてこの地にいるであろう中高生はどう思うよ。その子らの落書きというのはまあかわいいもんだけどさ。
でも。書かずにはおられない。目撃されては困るのに、知ってもらわずにはいられない。とても話せはしないけど、少なくとも知らせることで、その愚行や奇行さを薄め、また、こんなおかしなことをした人が居たんだということを、知らせておきたい。異様さをはっきりさせるため、年齢まで記してある。同志をも探し求めている。おちゃめに振る舞っていつつも彼には不安が内在し、私自身も不安にさせられた。あの大きなのびのびした字も、子供の無心というより、大人の虚空だった。
でも違ったことをしたいと念じつつも、どこかで朋を探したくなるのは私もどうしようもない。昨晩もこんなことしてるの自分だけなんていやだと顔を蒼くしていたくらいだ。しかしいざ朋が見つかっても、共感の次には喪失感からくる探し物の旅が始まるわけだから、勝手に朋を見つけ、そして勝手に孤独を愛するのであろう。
「しかしこうして日が当たっている萌出せる若葉の山々はまぶしいくらいで、あの夜のことなんてどうしたって想像できない。」
初夏っていうのは、夏よりもずっとめんどくさくて魔的だ。しばらくはこの陽光にごまかされているとしようか。わざわざ裏返しにするのも惜しいくらい美しいし。干からびた眼球という錆の目を浮かす、棺桶の同然のぼろ貨車ですら独り気持ち悪く唄っているしな。
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