能登鹿島駅

(のと鉄道・のとかしま) 2008年4月

  列車が一休止するのにおあつらえ向きらしい、平地が広がりそこそこの集落ありげな西岸にというところにて下車した私は、そこの風景から、これから七尾湾の外洋へ解き放たれつつありそうな予感を得た後、再び列車で鹿島へ向かっていると、また山に差し掛かった。しかし今度こそは林の中を走るのではなく、海山の際を走り、路盤は小高く、地図ではあるはずの道路は下方で視界にあまり入らず、淀みの少なくなった七尾北湾が甍と共にゆっくりと窓から眺められた。穴水を前にしてやっと、最も惹かれるべき区間に入ったのだと思うと、昨日今日とこれまでの疲れを感じた。

  西岸からの駅間距離はやや長いな、と感じながら、列車は能登鹿島駅に入っていった。入っていったというのは、車内から見ると、葉桜の木々のトンネルの中に入るかのように捉えられたからだった。穴水までの途中駅はここがもう最後だと思い名残惜しみながら、列車を降りた。ここは気温がほんのり低いらしく、初夏らしい肌寒さの中、目がおかしくなるほどの氾濫した緑色の中に佇む。片側は山肌で、単子葉に埋もれて気付きにくい池沼があり、水棲らしい円い葉の植物が見え隠れしていている。耳を澄ますと、ちょろちょろ水の流れる音が聞こえた。ひんやりした。

穴水方。

隣、上りホームの待合室と、車掌用の乗降確認台(現在は使われていない)。

下りホームから見た駅舎。構内踏切跡がある。駅員がかつて客を誘導した。 無人化後、このように埋められた。

駅名標。国鉄のフォント。

縦型駅名標。

桜の木々と石積みの上りホーム。チューリップなども植えられていた。

 

当、下りホームの待合所。自然の中にあるため、椅子は虫などで汚れている。 しかし桜の季節には大いに使われるのだろう。

 

  それにしても、桜のきれいなところというのは、夏にはこんなふうに鬱陶しいほど緑が盛って塊みたいになるんだな、と、呆れたように眺めまわした。毛虫が降って来そうなほどだ。冬に多く旅をしたので、枯れ色ではないものを求められるはずのこの旅は楽しみにしていて、ならばここなら緑はきれいだろう、と思ったのだが、ここまで葉が多いと反って暗く、陰湿だった。
  厭なことに、その緑の中、桜の季節に使われた、枠が朱塗りの行燈提灯があまたぶら下げられたまんまで、葬式が思い浮かび、気持ち悪くなる。愛で足らぬ、未練のある人々が、そこここで宴を披いているようだ。もう面倒がらずはずしたら、と、独り言して構内踏切へと向かう。一種の、無形の廃墟だったのだった。

所在地入り駅名標。たいていは近年の合併でごちゃごちゃに変更を受ける憂き目に遭っているが、ここはそのまま。

 

裏手は湿地帯だった。

 

ホーム七尾方端にて。

上りホームがだいぶ延長されているのがわかる。

これで木製なら、北海道的だ。

上りホームの延長がはじまるところから、上りホームを穴水方に見て。 つまり、本来のホームの長さ。

 

あの向こうには七尾北湾が横たわっている。

 

新構内踏切への通路。

この季節の優しい海が見える。

 

ちょっと頼りない踏切。

踏切に手て、七尾方。

至穴水。次が終着。ほんと高い山は見当たらない。

自然の中にあるという趣きの駅。

上りホームにて、穴水方。白線のみ。

 

  海側のホームへ来ると、車掌が旅客の乗り降りを確認するためにかつて使った台が錆び朽ちながらも小さな展望台のように延びていたり、芝生の中に 駅舎へ向かう階段や通路がいくつかつけられていて、なんだか小庭を呈していた。駅舎も亭 (ちん) ともいうべき、白い東屋で、洋風だったが、蕭然とした もの寂しさ、冷たさがあった。この駅は下りホームにも、上りホームにも、荒れてはいるものの待合室があるうえ、駅舎にも座って待てる空間があることから、利用者が多かったのかなと思った。しかしその亭たる駅舎は、初めから無人駅として設計された様相だった。
  端まで歩くと、田鶴浜で見かけた保線の人々がちょうど構内の始まるポイント付近にいた。なぜか若い人が多い。駅舎の近くには作業車が駐められていた。

上りホーム待合室内。あまり待つという雰囲気ではなかった。

しかし清掃はされていた。

今は用途のない階段。旧駅舎時代のものかもしれない。

 

 

 

ホーム延長部分にて。

 

海側を覗いて。保線用の道路が来ている。

 

 

 

こんなふうに海が見える。

車掌乗降用確認台にて。

 

観桜にはよさそうだ。

駅舎内の待合室。駅前から戻ってきて、列車が来るまでここで座って待ってた。

 

洋館風。

海がよく見えた。

駅舎側の窓。

待合室から見た外の様子。

屋外にあった鉄道電話。

だそうです。

駅舎の中に入ってあるあのポスター、いったい何度、誰かかがいる! と思って凝視したことか。貼り方が悪すぎるし、ポスター自体も、とてもよくない。出ている人は悪くないのだが。

駅前へ。

1988年(昭和63年)にこの駅舎が造られたそうだ。それまでは純木造駅舎だったのだろう。 桜並木は国鉄七尾線が開通した1932年(昭和7年)に、地元住民が植えたそうだ。

能登鹿島駅駅舎。

無人駅。

駅前の様子。道を進むと二手に分かれ、左手が海岸沿いに出る道。

  駅前から見た駅舎は、まるで模型のようだった。博覧会の展示物かのようだ。こんな華奢なのが、本式の駅なのかと思った。
  桜の木がたいへん多いことで有名だという、解説板があった。桜だけならそれほどでもないのだが、駅を出て道路の向こうにすぐ海、七尾北湾があるため、景色がとてもいいのだ。自家用車で来る人もある。するとその季節には人々が押し寄せる道理だ。幸か不幸か、今はシーズンオフといえよう。
  緑もきれいだと思ったけど、やっぱだめだわ、と思いつつ、駅前をなんとなく歩くともなく眺めるともなくした。広場はなくて、道路に坂で降りられるようになっている。

右手の保線用道路。

信号機室?

駅を見上げて。

 

元のホームは左。どういういきさつかは、明確にわからず。

日本海。穴水湾。

  七尾北湾は、まだまだ波穏やかな方だけど、すがすがしさが現れていて、気分がまずまず良かった。この先もっと珠洲や禄剛岬まで進むと、素晴らしい景色に出合えそうな予感が高くなった。それで、能登線が残っていたら、と、しんみりと思った。そこまで思わせたのは、この駅でだけだった。

能登中島方。

海岸は少しさびしい雰囲気だ。

駅前にアクセスする道路から見下ろして。ひところ、庭のあるおうちには バスケットゴールが置かれた。海を見ながらバスケの練習ができる。

 

 

駅方。こういうふうに駅から坂を下りて道路という図式、能登らしく思える。

穴水方。

左手の建物は喫茶店か何かだったのかな。

 

なんて立地のいい自販機。

能登中島方。

  足が痛い。まだ旅行2日目だが、いつもこうだ。それで駅舎の待合室に入って、腰掛け、休む。靴を脱いで、足を揉んだ。靴は長く買い変えてなくて、中を覗くと、ソールの親指のあたりが こそげとられていて、ゴムの黄色い色が見えていた。靴下は薄物のようになっている。あまりに足周りの準備に無頓着だ。

  ぼうっと、駅舎の中を眺めまわす。穴水を思い浮かべながら、「あとひと駅か」。電気は点いておらず、薄暗かった。病的な白い窓枠のガラスから、葉ばかりの木立の間から、七尾北湾を覗いた。ふっと振り返ると、ポスターに大写しになっている女性タレントの真剣な目が、自分の目と遭った。そんなことが何回かあった。

  昨晩、よく眠れていないためか、体がだるい。そもそも、この初夏の時期というのは、日較差が大きく感じられ、変に体が疲れる。その上、天気はいま一つだ。そういうわけで、明日の予定、城端線はすべてカットし、帰ろうか、ということを、漠然とここで考えた。正式な決定は、穴水についてからだ。帰るならそこで切符を変更しないといけないし。 うっとしい天気につかまっちゃったなと、思う。城端は山手だから、いいと言えば別にいいんだけど。

  駅前に車が停まり、高校生ぐらい清楚な娘さんとその母親が降りてきて、駅の方にやって来た。客が来た、列車に乗るんだ、と思った。母と一緒に、娘は駅舎に近づくように歩きながら、「ここってもう来てないんでしょ?」といいつつ、私のいる待合室をちらっとのぞいた。すると、「あっ」と声を小さくあげて「(列車はまだ)来てる…」と、そのままホームへと向かっていった。
  少しむっとする。しかし、やっぱり和倉以北はほとんど廃線だという認識なのかもしれないな、と思い、そういう認識なのも、これまでの下車からすると、むベなるかなと思われた。興味がありでもしない限り、いつ、どこからが廃線になったかなんて、曖昧なままだ。私とて、廃止の前後関係がわかっていないときがあったし。
  その二人はやがてホームから下りて、なぜか戻って来た。そして駅舎前で自分たちを入れた記念撮影した。あまりに意外だった。このようなごくごくふつうの婦人方にもこのような趣味があるということに。二人はそれを終えると、また車に乗って、能登中島方に走り去っていった。どうも駅を一つ一つ訪れているようだ。そうかやっぱり車か…と思うと、わざわざ列車に乗って下車なんて、意味があるのか、と、足を揉みしだきながら、つぶやいたりした。しかし遠く離れた駅が目的でありながら、列車を少しも使わないという発想が自分になくて、二人を不思議に思えもする。鉄道と道路との兼ね合いも、とてもおもしろいものだけど、車で行っても、私の場合、結局、列車を使う人を見ると、盤石の存在で、勝たれんな、と、苦悩させられるから、列車で来ちゃう。駅に列車で来た人、乗る人がいる、というのは、過不足ない美しい存在だと思えている。自分がそういう因果明確な存在に、役どころのはっきりした俳優に、純な存在としての旅人に、なりたく、見られたい、という考えがあるのかもしれない。しかしその一方で、ほんに地元に棲み付いている人は、散歩がてらぶらぶら駅に来るし、たいていそこにある販売機で飲み物を買ったり、ただ家と駅を車で往復して、送り迎えをしたりする。列車に乗らない。けれども、これは、生々しいほどの、地元の人の姿だ。旅行者はあくまで旅行者でしかおられない。いくら下車しても。いな、逆に、下車すればするほど、いっそう…。

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