入善駅

(北陸本線・にゅうぜん) 2008年8月

  泊から隣の入善に行くため列車に乗ると、中は休みの日らしい雰囲気で、連れ立っての老人や、子を連れた親などが見えた。日差しが強すぎるため、カーテンをしっかり引いて、古い匂いを放出する冷房に当たりながら、みんなは朱のモケットに体を沈みこませている。ときどき便所に入る人がいた。引き戸は硬いスチールの枠が付いていて、建てつけが悪そうな音を立てた。
  入善って、なにか宗教的な響きがした。北陸だから、浄土真宗を思い起こした。

  入善に着くと、数人だけが立った。みなもっと先まで、つまり魚津や富山まで行くのだろう。
  降り立ったら、車内が複雑な改造をしていたため、広い空間に解き放たれた気持ちになった。が、冷気を失い、熱いミストを浴びせられた。

  女車掌のホイッスルと共に、重力で地面にめり込みそうなほど重そうな剛性の車体が、せわしなく出て行く。少しでも遅れると特急がつかえるからだと思われた。あんな鉄の塊が走るんだから、不思議なものだ。

 

これを見て特急停車駅だったんだとわかるような、落ち着きようだった。

2番線の風景。

荷物搬出路の趣きがあった。

すでにレールの剥がされている乗り場ある。

入善駅といえばこの海洋深層水の広告。 そして地表での湧き水も有名。

1番線ホームを見通して。

改札口。

 

黒部、富山方面。

 

ホームの床面もどこか赤茶けている。

裏手の工場。樅の木?

駅名標。

 

 

どこを見ても富山平野らしさが漂っていた。

泊方に駅構内を望む。

 

これ躓きそう。

替わって、跨線橋をくぐって、泊・糸魚川方。

 

跨線橋内にて。

富山方面を望む。

泊方。地平から見た方が見通しがよかった。

 

駅前の様子。

1番線にて。

ブロック積みの信号機室。

 

ホーム泊方端にて。

 

本線らしからぬ様相だが、北陸本線の果てらしい感じ。

ひまわりと駅前。

はくたかの停車。

駅前らしさを演出するビル。

 

島式ホームを見通して。

 

 

鏡があった。

改札前の佇まい。

古いラッチが残っている。

 

貨物側線跡。なぜかコンポストが置いてある。構内の花の肥料?

 

 

提灯でもなければ構内は寂しい色合いだった。

内照式広告灯は少なかった。

  構内は泊と似た感じだった。裏手の工場の樅の木が夏は明るかった。
  建物も表情をほとんど付けないコンクリートばりのものだったが、当時と違い今では、素材そのものの質感を感じられ、また均整美を感じられて、建物が存在していながらにして無地のキャンパスのように、そこにいろいろなものが想像できるものだった。

  駅から出ると、快晴の透明度に目がくらまされ、そこに旧暦の七夕飾りが、熱風によって翻されている。血液がたちまち蒸発していった。いくら顔をしかめても、手で庇を作っていても、光線で片目は潰された。実質、片目だけで歩いたようなものだ。開けられないのだ。

改札内から見た改札口の様子。

待合室。

出札口。

 

待合室内にて。冷房がよく効いていた。

ディスプレイが泊のものと同じだった。中身は違うけど。 海洋深層水などが紹介されている。

 

 

 

 

 

ロータリー中央部。

入善駅駅舎その1.

2.

 

黒部方に見た駅舎前の様子。

その3.

4. 右側はトイレになっている。

 

 

黒部方。

駅舎その5.

泊方。

 

駅前交差点。信号があるほどではない。

  人や店がないすかっとした大通りは、遠くどこかにいっぱしの街のあるのを想わせた。代わりにあるのは、湧き水。それを見つけて人目憚りなく全身に水を無性に浴びたくなった。見るものはもうこれで十分だ、と、むやみに歩くのをやめ、早々に空調の効いた待合室に引っ込んだ。呼吸が苦しいほどに暑いんだから。いわゆる北陸フェーンだろう。

 

大通り。

 

脇道に入って。

 

黒部平野によく見られる立山からの脇水。

入善町は黒部川とその支流の造る偉大な扇状地にある。

大通りから見た駅。

 

  駅に入るとき、駅の前に自転車旅行の学生が二人木陰で休んでいた。駅は海岸からかなり離れているから、海沿いは走らないようで、珍しいと思えた。それにしても海岸は遮るものがないから真っ黒になりそうだ。砂なんか焼けているだろう。ここの汽車線は、好きなだけを海を見せてくれる優しさは持ち合わせていない。そのためか、都市が連なる印象が強かった。しかし、特にこの富山東部を乗ればわかるように、平野は海浜に向かって傾斜していて、海が向こうにあるのは、確かなのだ。それゆえ窓ガラスいっぱいに見られないという、満たされない思いが育まれ、それが、何度も何度も、私に北陸の東へ、ひいては北陸へ足を運ばせている。

  逸る心を抑えて、海を想う列車の中で、何度もその海を見ているようで、じっさいには、一度もその海を見ていない。いくら描写しても、何も描けない海というものには、そのような処置がふさわしく、似合っている。

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