谷浜駅

(北陸本線・たにはま) 2009年9月

有間川付近にて

 

  眼下に縹渺と深い水を漂わせながらも、悲哀の有馬の皇子の眺めた岩代の明るい海にもときに似た、望海の茅舎の祠のような有間川駅を過ぎると、牟婁といえばというその湯を冠す湯殿山をくぐるトンネル、かつて山砂が滑った故に成ったというその隧を抜ければ、そうここは北陸だ、そこが今しがた降り立った谷浜、となるのだが、もうここまで来ると、糸魚川・能生という西頸城の一つの傾向は確かに終わったな、と思う。あとはずっしりした、港 直江津の響きを待つばかりだ。広々と平らな谷浜の海辺の地は、いかにも川や海から砂が堆積してできたらしい感じのもので、上越を下ってゆく旅人には、もう安心しきってよさそうなところだ。久しぶりに海らしい看板が立ち並び開放的になった国道はゴムタイヤをむごごごっと摩擦させる音ともに車を快走させ、もはや親不知の暗さと精神的な走りにくさはみじんもなく、繋がっているとさえも思えず、北陸道もいよいよ一区切りという趣きだ。

  しかしここは直江津とともにあるともいい切れない。山向こうになるし、木々いの生い茂った砂丘の陰鬱な影の続いていくのを想うと、そこは異なる文化に思える。また谷という読みも鉄道境のせいなのか妙に西に寄っているのをそぞろに感じさせる。

 

 

 

待合室。変わった椅子の付け方。たいていは左右片方に長くつけるので。

さてここでクエスチョン。ホームにはこのように「かもめ」と記されていますが、このことに関連して述べた次の文のうち、最も適切なものはどれでしょう。
1.北陸線と信越線、それらの特に風光明美な海沿いである能生〜鯨波を通しで夏に走った快速「かもめ」の停車駅だった。
2.これは夏の臨時イベント列車「ジョイフルトレインかもめ」の列車がここに停車した名残である。
3.この往年の「かもめ」は近年の夏季臨時快速「マリンブルーくじらなみ」と言えるもので、このように名前を変えほぼ同じ運行区間となっている。
4.夏季、海水浴客を運ぶため、特急「かもめ」が臨時に谷浜駅に停車していた歴史がある。
5.かつて夏に運行されていた臨時快速「かもめビーチ」列車がここに停車していた。
6.この「かもめ」はかつて一時的に「くじらなみ」と名前を変えてして夏季に運行していたが、名称変更が反映されずこうしてホームに残ったものである。

あの跨線橋は絶対渡ろう。

糸魚川を抜けてようやく直江津に近づいてもまだ新潟市まで139kmだと。

構内をまたぐ陸橋と跨道橋が合体していた。

白破線の残る風景。

木造駅舎の特徴をよく表してる。

昔のままのホーム。

糸魚川方。中央の未舗装が汽車時代風。 汽車とは山の属性に思えるけど、ここでは海辺を走る。

 

 

自宅の室内からの風景だったりして。

 

 

  ともかくプラットホームはそういう浜に接した開けた平地に長々と直線を伸ばし、旧式の小さな駅名標がそれぞれ上下のホームに重ね合わせるように立っているのは、それだけでもう古い衣装ではあるも十分に休暇的な装いと捉えられた。
  ホームからは先の国道8号の快走路、直江津に走りゆく車を見るたびに、ああ、もう北陸本線の旅も終りか、と、直江津の古い港街の賑わいや、妙高地方の黒い香り、東の風が入ってくることに倦怠を感じつつも、それよりさらに先の日本海沿岸の景観文化にそろそろ憧れはじめそうなところだった。

 

 

山が柔らかそう。

米山だろう。

 

 

駅前を見下ろして。

青緑の色の取り合わせが絶妙。

小手荷物搬入出通路。

 

架線柱を見るに電化したんだなあと思う。

しっかり木造。

 

 

 

 

 

 

 

左:レンガ積みがしっかり残る。
右:バラスト運搬車両

ラッセル。

糸魚川・能生方面を望む。

 

 

 

  しかしその予定はなかった。最後の北陸本線を味わえばいい、と、屋根のないまっ平らな照りざらしの黒っぽいレンガ上の島状ホームからの走り飛ばす車列の眺めに別れ、またさらにその向こうの夏らしくきらめく日本海を胸に、海とまったく反対側にしつらえてあるくたびれた木造舎の軒下の影に体をくぐらせた。青緑に塗られた木柱や黄褐色の壁の 廉価なプリント木目が眼に迫ってきた。
  初めてここに来たのは4年前。初めての一人旅の2日目、直江津から乗って青海川に行こうと思ったのに、高岡と長岡を勘違いして逆方向に乗りすぐ気付いて降りたときだった。行きたいところに行けなかったという、あのときの絶望感は忘れられない一方、初々しい感覚だったと今になっては思う。むろん偶然降りることになった谷浜も海にとても近く、遠浅で砂浜が長いことで著名だというのは知っていたのに、どうにもはなはだ不本意で、まあなんとかなるか、と顔をゆがめ苦り切ったほどだった。初めての旅立ちとあって何度もイメージしてきたその中に、この谷浜の映像のないことで、本当に駅舎は他人のようなものに見えたし、谷浜という表示もそんな特別な海を連想させてくれなく、海はあるも西の方の山の近い集落、本物の見知らぬ駅、知らない人の顔、そんなふうに見えた。谷という文字を見るたびに、そんな渋いところに来たかったんじゃない、自分には似合わない、と不満だった。2時間も暇つぶしをして、海や浜は確かにきらめいてきれいだったが、何のきまりごともない中の無為には、背中を灼く太陽もあって憔悴し、日陰の屋根付き跨線橋にしゃがんでいた。その床の正方敷石から空想の海水浴客の足をでっち上げながら、ガラス越しに一般国道の青看架かるエメラルドの陸橋と海浜をぼーっと見詰めていた。ともかく、とあるところだった。おまけにこの辺は長浜というところだそうだ。こんな瑣末なところにこんなに、しかも偶然に時間を食って、それだけに北陸は自分にとって無限だと思え、無限に旅しているように思えた。駅あるももっと何気ないところがあり、それぞれが突然の出会いであって、それが成立するほど偶然とそして時間に限りがないのなら、それは本当に何人分もの旅行をしていることになる。けれどそれはできない。すると捏造したくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷浜駅駅舎1.

2.

かつては臨時改札としても使われたとか。もう海が見えている。

  そもそも海水浴客などいたのかとさえ思える。今となっては。プラットホームにはまだ「かもめ」と毛筆体が残っていて、かつて游泳客を連れてきたのだそうだ。いてもいなくても、いたのであってほしいと思う。にわかに信じにくい直近の史実や現象への憧れかもしれず、単調な現代の意匠らの中に複雑な階層を見出したがっていたからかもしれなかった。駅にいるとこうまで寂れるとは思われなかったろうと思い、自動車の時代とはいえ、もとい海水浴自体がなのだから、いくら強固に思えていたものでも、遷り変るのを思い遣ると、人が来なくなったからと勝手に変えられない地名谷浜や、海、というのは証人らしいけど、その中でも最も危うい、今なお残存し続ける潮風の染みこみ、浮いた鉄錆を持った木造舎は、残暑で民家の裏山に蝉の鳴き染むひっそりとしたこの界隈の重たげな漆黒の甍の集落と調和して、やはり境なのか、駅舎ははしご付き、トタン屋根文化で、その錆びた板は空想上の雪を重たげに頂いて、夏の暑さに目深に庇を下ろし、游客の顕わな肌を陰で覆って迎え入れんとしていた。

いかにも駅前。かつてはこんなところにボンネットバスが乗り込んできたのだろう。

西からくればようやくこれだけ土地を取れるところに来たなとも思える。

 

 

 

 

 

  海に出る前に、駅がそのきらめきに後ろ向いて接道してる落ち着いた旧街道を覗くと、夏の午に郵便局が冷気を内に湛えていそうに自働硝子戸を閉め切り、濃紺を被服を纏った赤二輪がまるで別なところをくるくるまわっていた。家々は特に街道の賑わいを感じさせるものはないなと思いきや、よくみるとほとんどの家が何らかの形で民宿を営んでいる形跡があった。海側にあった二階の見晴らしのいい縁側つきの木造だけでなく、こちらでも砂塗れの人の応需を担っていたのだ。「ここまで多いと…」 実際このようなところに泊るのはどんな感じだろうか。冒険にならず何の気なしにどたどた上がれた時代を少しうらやんでみたり。

有間川方。

ここは頸城バスが牛耳っている。

谷浜郵便局。

 

 

 

 

 

海への飛び込み台。

糸魚川直江津間では小駅というより中くらいの規模に入ってくるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  浜はがっくりくるほどこの間来たときと何も変わっていなかった。真上から照らすので、白く焼けたファンデーションが延々と続き、遠くには直江津の臨海工業や米山らしきがかげろうで揺らめいて望まれた。半袖一枚の背中がじくじく暑くなってきて、ただ冷たく気持ちよさげなサファイヤ色が、一瞬ときを止めてやわらかいゲルのようにうねり、砕けた潮が砂浜を色濃く舐めている。
 
  ひっそりとして涼感ある岩屑の親不知とは違う、背の山のみどりの頸城沿岸のこれまでの窮屈さは、ここで解き放たれ、ともすると西国のやわらかさ、伯州の一刹那のようなゆるやかさが出現したようで、ここ谷浜海水浴場はいつでも特異なスポットのようだった。ここからどちらに一歩出ても、もう谷浜には出遭えない、いくらこんなところがあってもよさそうなのに、ここしかないというのは、人を谷浜にとどめながらも無限に旅させ、またこの集落やこの民宿街とともに海水浴の文化が顕著に現れたところだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  背後には直近の雨後の小川が厚く積もった砂を断崖の模型を為すように削ったらしく、その砂の厚みを崩すように踏みつけると、小バエが一斉に舞い出してきた。藻が腐臭を放ち、砂浜を滑る川の水は汚い断片を流していた。
  山を忘れ、砂を踏みつけ海へ走りだして、疲れきって陸に揚がるとも、心ゆくまで藻掻いて得心し地の人となるのなら、その地を受け入れられるほかに、清澄さも見つけられるのは、海洋が其人の目を今も泳いでいるからだろうか。
  いつまでも地を蠕動し、肉体を挽き抱えて歩き、自らの生を追う主役より、街道と点で接触を持つ舞台を選んで人やその想像の地模様の傍観者を選んで諦めるというのは、もうあまりにも自分には慣れきったことだったが、あらゆる体験を独占する手立てとなりそうな客観や、逆に、濾し取られた体験への欲望もありげで、にもかかわらず何の捏造も行わない、観念を浪費する旅の自分はまた、決定的に游泳場を廃らす一人ともなっていたのだった。
  エメラルドの陸橋から振り返って、歓声の海水浴なんて!  他人の海より、この九月の酷暑な静かの海、恐ろしい大洋と雖もいつでも親水の波打ち際をあらしめて、いつでも僅かながらにも一体となれる機会を用意してくれている。しかしながら映像で水色に眼球が染まっても、いつでも背中に大洋を抱えていた。谷浜の記憶は砂の中の暗がりに葬ろう。熱せられ、それが海を想い燻らせるにしても、その眼の色が消えないうちに、すぐによそへと軸を移せるという旅ゆく者としての感官を、直江津に投じよう。

 

 

 

 

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