脇野田駅
(信越本線・わきのだ) 2009年9月
右:古風な感じ
左:酒の自販機
右:鉄道時代の面影とを留める酒屋。
脇野田冒険譚
ぼくはある忘れ去られた駅の内部に潜入しようと試みる。いまや駅であったことは忘れ去られ、いや、この町にはそうであったことを思い出してはならない暗黙の了解めいたものさえあり、その駅について尋ねれば嫌悪というより、それを越して、心から不可思議そうな、白痴のような表情を返される駅に。駅といっても、潜入したのは、とりわけぼくを強烈にひきつけてやまない、駅舎だった。この駅は不運な駅で、新幹線の開通と同時に、近傍の新駅に役目を譲り、消滅したのである。もっとも、いかにも花を持たせるのが得意な日本人らしく、最期の日にはお別れ会を開き、盛大にその死と交代を祝われたことは確かだ。ときの町長は上気し、北陸日本海沿岸の地酒に酔い、優先順位を失念して別れの挨拶をへべれけに述べ立てたのであるが、誰も彼が酔っ払っているとは思わなかった。紅白幕が春の日差しに眩しく、あらゆるわだかまりの雪解けを、日本人は春で以って、贖っているようだ。
とにかくぼくは、そんな話を聞いたことがある。というより、知っているのはそれだけである。その後もむろん在来線は存続することになっていたのだが、ときの不運から、交代と引き換えに腐っても幹線という座を退いて数年と経たず、廃線になったのだ。もっとも新幹線の一部の便で限定的に対処するとか、あるいはホームに横付けにしてバスを発たせるというような話があがっているらしい。しかしそんなことより、ぼくは実際にそこに駅があり、また列車が地平をのんびり揺ららと走っていたということを、この目で、確かめたくなって我慢できなくなったのだ。今となっては、ぼくには信じられぬことである。むろん直接見ることは、もうできもしない。しかし前々から気になっていて、古ぼけた建物が、例の駅の建物である、ということを聞くに及び、しだいに僕の中でそのボロ小屋が存在感を増し、ついに潜入の決断をさせるに至ったのだ。
その小屋前のだらしない袋だまりの広場からは今もなお朽ちかけた商店や古い付け替え前の国道がある。ぼくはてっきりこれは移遷の影響の一つだと思っていたのだが、祖母によると、駅がなくなるずっと前から、そのようなありさまであり、栄えていたのはもっと前なのだという。どうもかつては賑わったといいそうになるのがぼくの悪い癖だが、とかくなくなる前というのはもう大抵惨憺たる状況らしい。
そんな解消状態とは違って、構内の敷地はわりあい明瞭な概形を保ったまま、残っていた。ここも本来は新幹線駅ができることで、地価は高騰し、なにかハコモノめいた、地方の羞恥とも、逆説的に常に未来を見せている地方らしいものともいえるガラス張りか何かその辺の根回しコンペで決まったデザインのものが建つはずだった。しかしどういうわけか今も草はらが拡がり、新駅に近いところは一面照り返しの王者たる駐車場になっているのだった。
むろんレールはなかった。しかしそれでも、十分かつてを偲ぶに足る構築物はあったのに、なぜぼくは、余計に不法侵入を犯してまで、駅舎への潜入を試みたのだろう?
夏の予定だったが、決行日は遅れ、いつしか9月を迎えていた。秋になると、潜入してもその存在感がぼくの心の中で十分増幅しない懸念があったことから、秋めいたけれどもまた緑の残る白昼に、草はらの構内に侵入しも内側から駅舎の中に突入することにした。
白昼でも問題はなかった。いや問題にならなければならなかったのだが…。そのことは後に回すにして、なにせすっかり寂れ、誰も寄り付かないのだ。新幹線の方はむやみやたら警備を手厚くして何やら経費をふんだんにかけて、株価を維持しているようであるが、在来でおまけに廃線ともなれば、そこに入りたいという意志を持っている者には、違反者だ、というよりむしろ、ホワイ? と素直に聞き返されるくらいになっていた、少なくとも、この町では。しかしそれはぼくの不満たるところだ。すべからくぼくは糾弾してもらいたいのである。だいたい、あれほど暗黙の了解を漂わせ、ぼくに理解不能を示したくせに、よくてそこどまりなのである。彼らには何か、もっと罪深い意識があるとでもいうのか? しかしどう理屈をこねても、建造物に侵入するのは、やはり看過すべき行為でないことは確かなはずだ。ぼくはそれを信じた。奴らの鼻を明かしやる! というわけだ。
草はらの構内にいると、ずっと向うの方の高架ホームから、豪勢な構内放送が流れてくる。この音楽はどうも、この開通に合わせて無理やり郷土から発掘してきた、古来からた伝わる音頭によるものらしい。祖母ですらそれを知らないと言っており、挙句の果てにはこっそり誰かに今の時代に作曲してもらったのではないか、という冗談めいた噂まで出たくらいだ。しかし名誉のために断わっておくと、と言っても、架空の街と駅に対しての名誉なんて、この作者は負うべきところのものではないと思うが、名誉のために断わってくと、これは実在した郷土音頭であった。祖母の世代ともなると、ぼくらもそれくらいのことは知っているだろうと思い頼りにしているのだが、もうだいぶ郷土感覚もない世代になって来るみたいで、あてにならない。
構内の草はらで草に埋もれた重いレールジョイントの残骸や割れた枕木に蹴躓きながらも歩いて、いよいよそれ以上駅舎に近づいたら怪しまれる、というところまで来て、ぼくは、新幹線のホームを見やりながら、呼吸を落ち着けながら平然とした表情を浮かべた。近づくにつれて、いやな気持になってきた。なぜ構内で満足できない。列車が走っていた実感がほしいなら、より近いそこにとどまればよいはずだ。いらくさの臭いが鼻を突き、細かな白い虫が舞い、バッタらしきが草の茎の中ほどを飛び渡る。ぼくはふと嘆息して、決心らしい決心も引き起こさず、それがまるで自然であるかのように閂のように打ち付けられた扉へと、足を高く上げて枯れた茎を跨ぎながら、接近していった。
外界への扉の隙間の光による埃のみごとなチンダル現象、ぼくはそういうエアロ―ゾルの溶媒のただなかにいる。しかしその駅前側は、といっても、今はもうかつてよりも余計に何もなくなって、規定も合わせて失い、ずた袋になっているのだが、そちらの窓はベニヤ板などで覆われず、はっきり見定められるだけの光が入ってきていた。あたり一面黴臭く、あらゆる物体が海底に沈んでいる。ぼくはプランクトンを吸うまいとしているが、いくら暗がりに鼻を向けたからといって、それを避けたことにはなっていないだろう。ぼくは怪しまれぬようにと、入ってきた内扉は閉めていた。ぼくはちょうどこの空間のただなかに、死人か、過去に生きている人間か、今を生きる人間か、いずれかの形で存在しているだろう。こんなに締め切った状態は、ここが活きていたころにはなかったはずだ。往時の人々の何やかやなど、聞こえてくるはずもない。ただ、確かに言えるのは、ここがあの当時、そう、ときの町長が酔っ払って(いや酔っ払っていなかったが)祝詞とも弔辞とも取れるようなことをばかに大きなヴォリュームのマイクで述べ立て、紅白饅頭でも投げつけてもらわんばかりのあの時以来、音のない世界、このままに閉ざされているということだ。ふと新幹線のあの、豪華な入線放送がかすかに聞こえてきた気がする。いや、ここまで聞こえてくるものなのだろうか? とにかくそれらしき音楽はすぐに、ぼくの耳に狂ったように歪曲され、変奏され、きわめて奇怪な踊りとなって、呪詛的な性格を帯びて湿っぽい木製構造物と、もう名前も知らない昔のミスコンテストのポスターの穢され、劣化して破れかけたものらを今に在らしめ、過去に生きた人々の、墓場の土葬からの、呼び水となった。ぼくは恐怖に駆られ、逃げ出したくなる。ふと入ってきた扉を見ると、厳格に内側からも打ち付けられているのを目にし、狂って扉に体当たりした。ポスターの瞳がぼくをじっとりと見つめているのだ。しかしすぐ、その脇の窓から入ったことを思いだし、安堵の小康を得る。しかしそれだけではなかった。この埃っぽい光線のある内部に恍惚として視線が固着されていたのを解消する、出札口が立ち現われてきたからだ。そこはここ、人が一時的にしかいなかった、埃だまりの空間と物置とは違い、生活らしきものがあった。脆くも粉砕されそうな趣味の悪い花瓶や、古くなって罅が入りそれを茶染みでなぞったマグカップのいくつか、粗挽きコーヒーの瓶、キャップに歯咬痕の付いたボールペン、その他諸々が転がっている。本来このようなものは処分されてしかるべきだが、どうも新駅への移遷の前には、いかなる処分の意欲も失われたらしい。待合室に視点が固着されていると不安でたまらないが、こうして駅務室の内部を覗いていると、妙に安心できるものがあった。しかしそのおかげで、単にかつての生活感から過去を勝手に偲び、何やらぼく自身、理解した気になって安らいでいるらしく、これ以上の侵入には意欲的になれなかった。
ぼくは疲労困憊を感じ、またこの環境にも馴染みはじめたことから、さほど貴重なズボンも着てなかった近所のぼくは、埃だらけの長椅子に尻をそのまま下ろした。たぶん座面にはくっきりと途切れた楕円が描かれているだろう。そのときなんとなしに脇を見ると、何か記念オブジェのようなものが、箒や捨て看板の奥に潜んでいることに気が付いた。ぼくは急に気になりだし、尻を払いながら、ゆっくりそれら障害物を取り除きはじめる。するそこにあったのは…地鎮祭で使われたとプレート解説を付けた、杵、鍬、鋤が納められた透明な大きいケースだった。その白木造りの農具は輝かんばかりに見え、ぼくの頭の中を一瞬にして貫いた。
もしぼくらがあのいくつもの二本足の巨構に情緒を感じるまでになるとしたら、そのときには田んぼを耕すことにも濃密な情緒を感じているだろう。そして、それらは段階的な近代化を装っているようで、それはもはや近代ではなく、近代化はそれ自体、事始めのそのものであり、そこに確かに繋がるもう近代は、すでに遠くに行ってしまったのだ、そしてそれと、その感触をこれからどれだけ期待しても、それはひときわ力を付けられた巨構に対してのものとはちがったもので、二度とは得られぬものかもしれないものであった、ということに、気づくに至ったのだ。あれは大地と土木の技との類稀なるマッチであった、そしてぼくらはいま田んぼや峪筋から、いっそう手を振って別れ、離れたようでいて、それらを蹂躙しないようにすることとなり、また田んぼや山に、戻ってきてしまったのである。
ぼくらは近代を呪ったのだ。しかし決して自然を尊んだのではなく、むしろ穢すことの隠蔽が巧みになった一面を我々に覗かせる程度になってきただけだ。あれら石灰はどこから来るのだろうか? あるいはぼくらは自然に逐一襲わせることさえ、実感としても所望しなければならなかったかもしれぬ。それに不思議なことに、今の時代に至ってもなお、まず始めは、草を刈り、土を耕すことから始まる…そういう原初を認めているようでありながらも、どこからともなくしかしはっきりと聞こえる嘲笑、神を担ぐも白木の農具を微笑んで後ろに捨て置くという、土を身代わりして、嘲笑の対象とすべきすべてに対し、我々への憎悪の強制、呪詛的要求も同時にあわせもっている。そしてそういうとき、祝うべき面だけ取り上げて、もう一方の心理的解決としての実際面は、みんなしてぼくに黙っていたのである。だってあんなに笑い合ってしかいなかったではないか。それは欺瞞というよりむしろ、そのままに単なる相殺方なのであった。
「ぼくは土を自分の掌に取り上げなけりゃいけない。」
それから数か月後、冬を前にと意識したのか、駅舎は取り壊され、板木切れは湿気って、もろもろと土くれになった。潰されたのをぼくは、知らなかったくらいだ。駅庭の巨木も切り倒され、見事に高架がうねる敷地が広がった。あの日以来ぼくは駅や鉄道の実感に対するこだわりはしだいに薄れてゆき、今の今まで来ている。ただ、最近手にしたインターネットで気になって調べたところ、なにやら過去に実際に訪れた方の(その人は過去にずいぶん嵌っていらしたようであるが)くどくまとまりの悪い来訪記のようなものがあり、ぼくは少々それらある種のどうしようもなさゆえ鼻から息を抜きながら、ぼく自身の青年期の一時の迷いを、深みにはまらずに済んだことを得意に思いつつも、思い出して、ついついこんな形で書き出してしまったのである。
私は上のような記事を見つけ、自分のことを言われているのだと思い、憤慨し、即座に次のような内容の文を打った。いきなり失礼にもあなたという呼びかけで、
「貴殿は、ぼくらは呪ったのだ、などと言っていますが、貴殿が貴殿自身を呪わなくて済むように、他者に我々が根無しになることや根が減ってくことを呪わせつづけることで、帳消しにしてきたに過ぎません。貴殿もまた、自身を呪うことになる余地を今なお同居させているわけで、それが証拠に、あらゆる基点を意図して信じず、今なおそれらをのろって生を謳歌されようしているようではありませんか。」 とにかくお前の書いた自由はとんだ虚構のからくり仕掛けなんだ、と糾弾してやりたかったが、捏造でない自由とはじゃあ、と考えると、私は歯を固く噛み合わせほくそ笑み、その文書を破棄した。