楡原駅
(高山本線・にれはら) 2009年9月
未明、目覚ましに起こされる。案の定眠れたようだ。最終日はいつも睡眠に間違いはない。すぐに国道の走行音が耳に入ってくる。トラックより自家用車が多い。道路は広場を挟んでいるが、音が駅舎の中に入って反響している。駅が山裾にあるせいもあるだろう。向うのホームに行くのに掘り抜かれた地下道が途中で埋め戻されているのを夜見ていたから、このあたりの鉱山を連想し、またそんなものが反響のイメージを作っていた。白格子の窓からはいつも通り夜明けして白っぽくなった空が浮かんでいる。自分が死んでも変わらずに夜は明け続けるだろうと感じ、自分はきょうもたまたま目覚めただけかのようだった。事実、死んでいればただ毎朝見たそれがもう目に入らないというだけに思えてくる。いちおう今日も起きたからには予定をこなすしかない。機械的でも、熱い主体性を失った単なる目標と成り下がっていても、こういう時はいつも予定があってよかったと思う。忙しくして、忘れたいのだ。忙しくして忘れているがために、旅に出るはずなのに、見つめ直すのを恐れ、逃げ続けている。おまけに鉄道は自分が逃げている感じを少しも匂わせようとしない。そう簡単に失われてはならない場と思われている場だけに、そこでの記憶や記録を得るのは、表舞台に立っているような感じを与えるからだろう。変わっていく駅を下車で穴埋めし、追いかけている。流れいづる生を、時を止めることで明瞭に意識したがり、安易にとっかえひっかえ心象風景を求め続けている。心の中が空っぽなのをいいことに、好きなだけ逃走している。駄目だとは言わない。でも自分の居続けていい場ではない。けれど一度旅に出た以上は、少しでも豊かな時間を送れるようにするのがいいだろう。そういうやり方が、本来の道や人生そのものに傾いてくかもしれない。
目覚めてすぐに、トイレでの物音を聞く。ホースで水を流しているので掃除だとわかる。ということはもう何もかも知られた後というわけだ。じゃあもういいや、それにまだ少し早いしと、数十分は横になったのままでいた。
起き上がると背中が痛い。3日目だった。背中は少しじっとりとし、体にほのかな熱とどっしり溜まった疲れを感じる。片付けしていると、女の人が顔を待合室に覗かせて、「おはようございます」。私も何も隠さず、そのままに返す。たぶんざらなのだろう。鉄道旅行者より自転車や登山の人の方が利用は多いかもしれない。もうよくあることと知っているせいもあって、こんな駅でも、これほどに朝早く、5時から手入れしている人がいる、という思いはうっすらとしたものだった。しかしそれは、誰にも知られないかもしれないけれど、というところに、自分も同じ身分を感じるということに身が染まってきていたからでもあった。けれど見渡してみればそんなことばかりなんだろう。特にここでは除雪があるから、朝早いのはもう当たり前になっているのかもしれない。最終ではツーメンの最終気動車が安全にこの山奥まで帰り客を運び降ろし、深夜には誰かが眠って、朝まだきには掃除が入って……楡原駅に休みはない。年中都会である。
そして楡原駅は、本当は芝生に美しい楡の木の群れる奥に、蕭然と立つ駅だ。何もまた逃げようとしているのではない。現実を追いかける方が、却って逃げていることもあるくらいなんだ。想念を追いかけることで、現実に自分を追いかけて来させないといけないのさ! 今ここで私は血通い肉あるものとして、自らの姿を立ち現したい! そして朝には小鳥が鳴きしきり、この世にこんな駅があったかという情感を抱きながら独り占めする。事実そうでなくてはならず、そういう思いを蔑むのには飽きた。実際は、なんて、見てわかる通りだ。元々は村で、出先機関が集まって、市街はないというところだった。中心部なのにと思うけど、それが村というものだった。村の顔となる駅のせいか、駅庭は凝っていた。くだんの電話主はあの四阿にいたのかもしれない。
駅舎前の広場は気付くと道路沿いに古い柵がしてあり、大型車の進入禁止と小さくあるのを見つける。やはりトイレに使われることがあったようだ。するとあの夜通しのトラックやダンプの走破音は、ひとえにこの柵のできたときの固定感や、柵が認識された時間の長さによると思われ、むろんそのことで安心して過ごすことができたとはいえ、駅の忘れ去られたのが、もはや直接物的なものに拠るのでないことが、今も虚しく駅舎を守るたった一連の柵の寂しさと、それがなくてももう忘れ去られているだろう駅の虚しさを、光のまんべんなく回った朝の薄明に佇む私の心に、鬱勃とさせた。
高台のホームに立って、荷物下げて私は村を見下ろす。運動靴の裏で何かが転がる。ホームには砂利が散らばり、植栽は風景をぎざぎざにしていた。変わることのない建築のように、鋭い峰がそそり立って遠い日の出を思わせるがごとく白っぽい空に浮かんでいる。向かいのホームは山裾に打ち捨てられて久しかった。楡の木のある草はらに立つ駅などあるわけがない。必要もなく現実を見に来ているだけだ。そんな想像を何かの片鱗から醸造しようとする気分にもなれない。
「けれどさ。今日一日は、やってみようじゃないか。な?」
何が待ち受けているかわからないけれど、ただ、もう何も待ち受けていない気がする。実はもう答えが出ているのに、本気でそれに気付いていない、という状況に似ている感じを受ける。そういうのは、薄明のもたらすところらしいところで、どんなものをも魅力的に見せず、自分の心の本来の姿を浮かび上がらせる、きっとこの時間によって、どの程度自分が希望を持っているか、自分に嘘をついていないか、推し量ることができるのだろう。今日も青空が持ち上がるだろうな。でも、誰のため、何のためだろうか? そんな疑問を抱かなくて済むようになりたい。そうなるころには、自分は本来の道に立ち返って久しくなっているだろう。