未明、目覚ましに起こされる。案の定眠れたようだ。最終日はいつも睡眠に間違いはない。すぐに国道の走行音が耳に入ってくる。トラックより自家用車が多い。道路は広場を挟んでいるが、音が駅舎の中に入って反響している。駅が山裾にあるせいもあるだろう。向うのホームに行くのに掘り抜かれた地下道が途中で埋め戻されているのを夜見ていたから、このあたりの鉱山を連想し、またそんなものが反響のイメージを作っていた。白格子の窓からはいつも通り夜明けして白っぽくなった空が浮かんでいる。自分が死んでも変わらずに夜は明け続けるだろうと感じ、自分はきょうもたまたま目覚めただけかのようだった。事実、死んでいればただ毎朝見たそれがもう目に入らないというだけに思えてくる。いちおう今日も起きたからには予定をこなすしかない。機械的でも、熱い主体性を失った単なる目標と成り下がっていても、こういう時はいつも予定があってよかったと思う。忙しくして、忘れたいのだ。忙しくして忘れているがために、旅に出るはずなのに、見つめ直すのを恐れ、逃げ続けている。おまけに鉄道は自分が逃げている感じを少しも匂わせようとしない。そう簡単に失われてはならない場と思われている場だけに、そこでの記憶や記録を得るのは、表舞台に立っているような感じを与えるからだろう。変わっていく駅を下車で穴埋めし、追いかけている。流れいづる生を、時を止めることで明瞭に意識したがり、安易にとっかえひっかえ心象風景を求め続けている。心の中が空っぽなのをいいことに、好きなだけ逃走している。駄目だとは言わない。でも自分の居続けていい場ではない。けれど一度旅に出た以上は、少しでも豊かな時間を送れるようにするのがいいだろう。そういうやり方が、本来の道や人生そのものに傾いてくかもしれない。
目覚めてすぐに、トイレでの物音を聞く。ホースで水を流しているので掃除だとわかる。ということはもう何もかも知られた後というわけだ。じゃあもういいや、それにまだ少し早いしと、数十分は横になったのままでいた。
起き上がると背中が痛い。3日目だった。背中は少しじっとりとし、体にほのかな熱とどっしり溜まった疲れを感じる。片付けしていると、女の人が顔を待合室に覗かせて、「おはようございます」。私も何も隠さず、そのままに返す。たぶんざらなのだろう。鉄道旅行者より自転車や登山の人の方が利用は多いかもしれない。もうよくあることと知っているせいもあって、こんな駅でも、これほどに朝早く、5時から手入れしている人がいる、という思いはうっすらとしたものだった。しかしそれは、誰にも知られないかもしれないけれど、というところに、自分も同じ身分を感じるということに身が染まってきていたからでもあった。けれど見渡してみればそんなことばかりなんだろう。特にここでは除雪があるから、朝早いのはもう当たり前になっているのかもしれない。最終ではツーメンの最終気動車が安全にこの山奥まで帰り客を運び降ろし、深夜には誰かが眠って、朝まだきには掃除が入って……楡原駅に休みはない。年中都会である。