東富山駅
(北陸本線・ひがしとやま) 2009年9月
「これは (1.新湊 2.伏木 3.西岩瀬 4.東岩瀬) にある (1.漁港 2.発電所 3.業務用吊り橋 4.一般道吊り橋) の (1.荷役用クレーン 2.煙突 3.灯台 4.主塔) が、条件が重なって見えたものである。」
東富山駅へ
大駅に入った気動車の折戸から人々を吐きだし、体を両側に揺さぶっている。うっすらと上がる煙は、息が上がっているかのようだ。暖色を用いたその車両は、山の列車という趣だった。着くのはたいてい改札ホームで、その特権に対し客たちは、気動車の窮屈さとの引換であり当然、という歩き方だった。私は急いで跨線橋を上がり、水色のラインの本線列車の中に入る。遠くまで行くその列車が戸を開けて待っている様子は、本線列車としての余裕のようだった。もとい、運転の都合上、数分の停車だったというだけだが。何を押してもこの本線の時空間というのは喩えにくいものがある。普通列車なのに、優等のような感じさえするのだ。運行区間が長くなりがちな北陸特有のものかもしれない。
天気も良く、秋の暑い休日の昼下がりで、混んでいた。富山の旧急行の車内というのはいつも不思議で、客らはあたかも客車に乗っているかのような乗り方をしている。たとえば背広をひっかけて読書しながらボックスにはす向かいどうしで座っていたり、女子高生がキオスクで買ったものを友達と食ったりと。富山の勤め人は堂々として古風であった。この日は休みだから、ポロシャツの初老、買い回りの婦人、孫連れ、そしてふだん列車に乗らない若いアベックがお出かけにと乗っていた。混んでいて、また私は次の駅で降りるため、開いていない方のドア付近に立った。もし貴殿が長距離乗り、空きはじめても立ち尽くしていたら、周りはきっと貴殿をきっと奇特な人と思ってくれるだろう。いやみではない。なにせそのころにはもう市振や親不知だし、そんなところまで単行の旅で行くこと自体、奇特なのだから。
婆さんたちが乗り込んできて、これ黒部行くの、と口々にしている。ついに私に、「これは黒部行きますか?」 と目を丸くして聞いてきた。「行きますよ。これは泊行きです。」 すると相手の方を振り返って「え、行くの?」と小声て聞いている。すると相手が「行くんだよ。泊行だって、ほら。」
ほかのアベックもちょうどこの列車は目的地に停まるかということで不安だったようだが、泊行と聞いて安心していた。東線の列車は途中までしか行かないことが多々あり、また駅名の順序もおぼつかなくなりやすく、このような事態になるのだろう。分岐もない真っ直ぐの線だが、そんなでもこんななりうるのは、富山東部の雄大さを物語っているようでもあった。
残念ながら、私はもう隣の駅で降りてしまうわけだ。ほとんどの人がもっと乗るから、少しく悔しい。渡しが下車するとき、周りも、もう降りるの、という感じだった。それはむろんそれは私からの視点ゆえのものだと言われそうだが、そうでもない。なぜって、それを否定することは、私が旅行客に見えず地の人のように溶け込んでいたと言っているようなものなのだから。
東富山に降りて驚いた。金の光がグラウンドを満たし、構内の陸橋の影が深くなりはじめていた。いつの間に昼もおそくなったのだろう。いぶかしがりながらホームを歩いたが、何かありそうな感触のないところだった。
跨線橋からは山側に豊かな平野の広がりを見て取れ、滑川での光景を思い出す。その平野も立山連峰までのはずだが、窮屈な感じはあるわけもない。ここからはじまる新川地方らしい光景の一典型らしかった。
私はこの光の現象について考え、こここでは光の見え方が違うのだろうと思いはじめた。じっさい東富山とはいえ、これはかなり北寄りの東だ。途中に機関区や貨物駅を挟み、そして富山市街とは遠く離れてもいて、実はずいぶんと海よりなのだった。そしてここはただ空が爽やかで、空気に透明感のあるところだった。湊よりくるものでもあり、立山からくるものでもあり、またここから舵を切って一路東へと向かいづけるもの悲しさからくるものだった。
プラットホームには運動公園からの声や球技の音が届いている。それは都市郊外の音風景で、こんな遅い午後に待っていれば、疾く都市に誘(いざな)われたくなった。しかしながらこの停車場に健康的な思い出を持っている人もいるというわけだ。私のようなものではなく。
木造舎の中の待合は意外に広く涼やかだ。客は木づくりの据え付け長椅子に腰かけている。やはりあちらの方がゆったりしている。駅から出るとずっと遠くに青と白の港湾らしい、海を望んでいそうな塔が覗けて、この駅は本線における港の駅だと納得した。広いばかりの駅前に、越中らしい鉄粉を戴いたような甍の民家を添える道はまっすぐで、工場への道路はというとやたらに広い。しかし岸壁はというとこれは遠く、いっぽうランプ小屋はある。港の駅といえども、観想的かつ代替的だ。けれど、率直にいって特徴はなく、心の中はかなり手持ちぶさただった。それは、元々貨物駅としての期待をされて開設されたからかもしれない。
昔の荷役場近くの草生した駐輪所である男と目が合った。じっとみるから挨拶をしたら、要領を得ないいぶかしげな様子で、はっとし、華僑だと悟った。わからないことってあるんだなと思い、背を見送る。私が東富山に見ようとしているのも、そんなものではないか。私がここも駅に相違ないと思っていても、それはまったく違うものとして、ここの人々にとって存しているものかもしれない。新川地方の駅はそんな捉え方がよく似合う気がする。