西富山駅
(高山本線・にしとやま) 2009年9月
Ⅰ
Rが富山の大学をなんとなしに考えはじめたのはまだ寒い12月のころだった。Rの家では雪などほとんど積もらないが、内陸独特の寒さで、部屋や背中に水が這うような寒さだった。富山にしようとぼんやり思ったのは、頭のぼーっとするストーブ滾る部屋で、薬学なら薬売りで有名なところもいいんじゃないかと考えたからだった。自分に見合っているというだけでなく、そうしたもっともらしい理由がR子には、もとい受験生らには必要だった。私学でないのも大きかった。
そもそも通えるところに薬学はなかった。どうせ家を出ないといけなかった。
Rはクールでとおっていた。表情に乏しく、親もRのことを女の子なのに愛嬌がなくつまらないと思っていた。もしRに少しでも情熱がある方なら、少しでも上へと目指しただろう。もっと名の知れた大学などを考えたかもしれない。しかしRの性格からいうと、そんなことはまずないのだった。
万事そういう調子なので、独り暮らしはどうなるかとか、富山の街はいかなるものか、何か楽しみはあるかと想像を膨らませることもなかった。金がないならないなりに水場が共同の下宿になるだろうなあと思っていた。入寮できるとも期待していなかった。詮衡に漏れるかもしれない。しかしだからといってRは口が悪かったり、何でもシニカルに捉えるところまではいかず、ただ当たり前の理論に沿って考えるのだった。
けれどRもさすがに薬学がないなら通える大学の学部から選ぼうとまでは考えなかったというわけだ。それくらいは何とかしたかった。けれど具体的な熱意があったわけではなく、ただそれはなんとなく意地のようなものにとどまる程度ののものだった。
そういうクールなRでも不安はあった。「富山の大学なんて、独り暮らしはなんだかんだいって県内の遠いところからくる子ばかりじゃないだろうか、いや富山はそんなに広くない…」。
しかしそういう不安などに突き当たると、いつもRは冷静になってしまい、ただ例の当たり前な理論に沿う思考に戻ってしまうのだった。「それだからといって何だろうか?」
Rは受験した日のこともろくすっぼ憶えていないくらいだった。足元ばかり見ていて、べちゃべちゃした雪しか覚えていない。富山の街も覚えておらず、ただモノトーンに霞んでいただけだった。期待する要素は無に等しかった。駅弁などにも目もくれなかったが、父がますずしを土産に買って来い!と命令したので、ただ一つきり、袋に入れてもらって特急で帰郷した。
当たり前のように合格し、住まいを探すために母と来越(ライエツ)することになった。どうも一人住まいはできるようだ。ただ心中、感謝感謝とRは念仏のように目を閉じて唱えていた。紹介された部屋はどれも築十年かそこらの新しく見えるものばかりで、Rはもう申し分なかった。そこで、いやもっと古くて襤褸いのでもいい、と遠慮しないところがRらしいところでもあった。
いくつか見た後、「どこにしようか?」と母に訊かれて、Rは自然と「西富山駅の近くのにする」と口から滑り出た。
「そうね、駅から近いと私も来やすいし、駅が近いと便利だね。」
当たり前の理論に沿ってはいた。しかし大学や市街にもっと近くかつ感じのいい物件はたくさんあった。
不動産屋はにこにこ顔で「ありがとうございます」と恭しげに述べ、母も微笑んでいるが、Rはクールなままだ。
しかしまだがらんどうである決めた部屋に二人で入ると、しだいに寂しさがRの胸を侵食していった。隣にいる母もまもなくいなくなるのだ。「この部屋には何が残るだろう。私だけだ…。」
慌ただしく新生活の準備をした。プラスティックの家具は増えたが、それはRと同一物だった。一人にならないわけではない。また誰かの生活物や、その染み入ったものがここに残されるわけではない。
母に別れらしい別れは言わないようにして、部屋に一人になると、感情の原諸ともいうべきものが見えはじめてきた。この街には私の知っている何があろう、もしくは私を知っている何がここにはあろう! 見えないようにと真っ先につけたカーテン。ふとベランダの掃き出しに掛かっているそのカーテンをめくった。そこにはきれいに塗られた駅の木造舎が上方からの対角線上に見て取れる。人影もない、昼は時間一本程度の住宅地内の古い駅だ。ひどく安心した。
ここを選んだのは便利だからではなかった。そもそもその駅を利用する予定などなかったのだ。
通い始めると、Rのクールな性格はそのままだった。しかししだいに部屋は女の子らしさを増し、新たな自分を見出しはじめた。受験時の忌まわしい湿雪の季節はとうに去っていて、駅舎の脇の柳の木が芽ぐみはじめている。Rはその駅舎がなぜかかわいらしく思えはじめた。クリーム色とこげ茶色のツートンだ。ポーチは小振りで、目立たずに駅名の表札がかかっている。
Rの学生生活は我々から見れば意外なほど順調に回り出した。新天地での若いころというのは、とにかくそういうものだ。なにせ同年代の仲間が必ずどこかにはいるのだから。Rはそれも妙に駅のおかげである気がした。そう思えることは、新たな人間関係を築きつつある一方で、知らず知らずのうちに青春の孤独を味わってもいたのだった。
生活は順調で、市街まで出ることも増えた。気が付けばRは自分で服を買っている。「高校のころはめったにこんなことしたことないな…。」
Rのそれまでの気質に反し、友人の話に乗せられて金沢まで出るのもめずらしくなくなった。しかしRは周りに同性も多くなく、かといって男子学生に興味を持つでもなかった。
そろそろ休みに出かけない日も増え、お昼に勉強の休憩に歩いて十数秒のその静かな駅をわざわざ見に行くこともあるようになった。日陰になっている駅舎の中を少し覗いて、「よし、何もないな」 そう独り言ちて立ち去るのが癖になりつつある。「まあそのうち飽きるだろう。」
構内は入らなかった。なぜって部屋のベランダの方がよく見渡せるから。
夜になってふいに駅前まで散歩に出ることもした。それほど怖いところではなかった。柳の枝垂れが外灯に映えてすがすがしい。おそるおそる駅舎の中覗き、誰もいないときは至福を感じる。むろん夜でも「よし、何もないな」と独り言して立ち去り、近くの販売機に立ち寄り、部屋でアルコールの人体実験をしたり、また知人に連絡したりするのだ。しかし、駅舎の中に地元の人でないらしい人が座っていたりすると、急に面白くなくなって、すぐに部屋へと踵を返し、錠を下ろすのだった。
ある休講日ばかりのお昼、勉強の気晴らしに数分だけ駅構内を眺めていた。すると一人の旅行者らしきが、ホームを歩いている。こんな時間ここに来てどうするといった駅なのにだ。Rは不意に面白くなくなり、さっと白地に桃色の水玉のカーテンを引いた。カーテンを背にして、Rは駅に、嫉妬している気がした。
Ⅱ
新設の駅を発つ。そのホームのみの駅から離れるのは、思い切りがよく、爽やかだった。次は西富山。なんて聞くと、都市に近づき賑わってくるところだと思えるのだが、とても静かな町に闖入し、山に寄り添いはじめる。
列車の中はお昼なのに相当混んでいたので、乗客を掻いくぐって運転台に向かった。ほとんどの人は富山まで向かうわけだ。降りたホームから満員の気動車を見ると、優越を感じた。ほかには二十半ば前位の女人が一人降りた。まだ続く真夏日のなか、その人は構内踏切を渡り、駅へと入ると、消えていった。旅人ではなかった。富山大学の学生だろうか。
苦力して気動車がゴオオと都市富山に向けて発つと、強い日差しだけが残る。寄り添う山が呉羽山だというのだけはわかった。しかし蝉の鳴き音(ね)はなく、乾いた炎気で、九月なのがわかった。そろそろ自分もまっとうな夏の七、八月に旅してみたいなと思った。
ひどい暑さにやられながらさっさと西富山の相貌を占った。どうも木造駅舎が一つ転がるだけの静かな住宅地のようだった、というのも、私が構内踏切を歩いていると、シャッとカーテンを引く音がしたのだ。
「いるのか。いるんだな。」
そんな不審者みたいな台詞を独り言ちる。尤も何の気もなく、ただ駅を襲いたいとだけ思っていて、そんな言葉を駅に投げかけていたのだった。構内くらいしか居場所のない私は、だって駅だろ? と、脅迫めいた無精髭のルンペンに仮想的に扮装した。
新しいコンクリートの金鏝仕上げのスロープは、さっそく水の鉄分のせいかで赤茶けていて、またもや北陸を見た。どんな新設物もこうして私たちの膚に寄り添い始めるこの地方に、夢中にならない道理はなかった。ただでさえ、鉄粉の舞う駅だ。われわれはそう、いかにしてゆき進む近代を情緒的に消化し解釈するか、それにかかっているのである。経済的な理解が最も早いが、これは逆に新手のコミュニズムみたいなものだ。もういい! やっぱり木造駅舎があってうれしかった。しんと静かな住宅街に陣取る非電化の構内、しかし駅名だけは、次が銘都富山であることを物語っていて、静かな心持ちの中に富山らしい実直な活気が音もなく躍動するのを感じる。
ここは富山大学の最寄りにあたるからか、独り暮らしのアパートが多かった。かといって学生の活気とは無縁の緑の小山の裳裾だ。ホームの軒下で、日光の織りなす影と光の深さを味わい、がらんとした白っぽい駅舎内に入った。駅前の柳の黄緑が鮮やかで、赤白の柵がポーチへの小径を作っている。何もなく、土のままだった。
こんなところの一人暮らしは悪くないと思った。落ち着いて勉強できる気がする。高山本線も本数はもう知れている。そもそも停車する方がずっと多い場合、それほど気にはならない。
近くの酒屋ではビールの古い販売機がうなりあげている。人に紹介できる程度には写真を撮った後、私は、ああ疲れた、と言い放って駅舎の中の椅子に鞄を置き、もう一つの椅子に座った。ここでビールを買って一夜を明かす、そんな夢想を疲れた頭に繰り広げる。一般性のある、持たざる者の旅を考えるとしたら、そんなところだった。
西富山もこんなもんかぁ、と呟きつつも、もちろん助かった気持ちだった。「落ち着きが欲しい。」 つまり名前からすると本線にありそうなのに、こんなしっとりした雰囲気で魅力的だった。まあ、これも観念的なものだ。
時刻の前に先ほどのホームまで赴き、日照りの中列車を待つ。さっきより光線が黄味ががかっていて、昼も大きく回ったなと思い、また静かな白昼のアパート群の印象も薄くなっていた。こうして私の駅旅は一つ一つ終わっていく。鞄抱えて気動車乗って…。それは人生の旅の明瞭な形而化、意識化でもあるようだった。
気動車はまた混んでいた。とにかく八尾までは本数も多い。要するに、本来的富山市内の外郭をベッドタウン繋いで走っているのかもしれない。とはいえ、乗客数は本線の比ではないけど。「次は富山か。しんどいな。」と思いつつも、一区間の乗車で済んでほっとしていた。遠くから乗っている人は気分的にさらにしんどいだろう。東富山と西富山の対称性の面白さを考えつつ、神通川を渡った。まもなく富山の放送ももう入っている。