阿漕駅
この駅に着くまでの列車の中で、「阿漕駅」という駅名のことを考えていた。
「アコギなんて駅名をもらって、なんと不名誉なことだろう。」
この言葉は、「アコギな商売をする」などとというふうに、
あくどいことを重ねる、という意味に使われることがある。
しかし、まさかこの言葉が、この駅名の由来となったその場所の地名から来たものだとは
少しも知らないでいた。
下り線ホームから高茶屋・松阪方面を見て。
旧改札口。
旧改札口付近から津方面を見て。奥に進めば跨線橋の階段がある。
ホームに面した駅舎の白塗りの木製の壁には細いカラーペンやボールペンなどで落書きがいっぱいなされていた。 名所案内には文面を書き換えるように落書きがあったくらいだった。
駅の周りは一般的な住宅地で、駅舎と反対側には一戸建ての家々が並んでいるのが見えるが、 名所案内には、御殿場海岸が案内されており、ここから3kmで徒歩約50分の所だという。 しかし、これは、この駅から海岸を見るための最短の距離と時間ではなく、 海岸そのものは、駅前からまっすぐに伸びる道を1.5kmほど行けば見られる。 御殿場海岸というのは、そのあたりから右手に随分歩いた所にあり、遠浅で特に海水浴場に適している所らしい。 また、亀山から多気までの間では、この駅が、歩いて海にいくには最も近いようだ。
また名所案内には、阿漕塚への案内も出ているが、その塚にはこんな伝説が言い伝えられている。
漁をして生活していた平治は、病気の母親を治すために 食べればその病が治るという魚を禁猟区である阿漕ヶ浦で獲ろうとして何度も網を入れた。 しかし、ついに禁猟を破ったことが見つかってしまい、処刑されてしまった、という伝説だ。 この塚はそんな親思いの彼を供養する塚だという。 これは有名な伝説であるらしいが、禁猟区を侵してまで魚を獲り、 金儲けをした人がいたらしいこと自体はあったのであろうと推測されていて、そこから、 現在使われるような「あくどいことを繰り返す」という意味で 「アコギ」という言葉が使われるようになったと考えられているのだという。
トイレ前。「便所」と書かれた電照式案内板が珍しく感じられる。
下り線ホームから津方面に見た跨線橋。 跨線橋にJR阿漕駅の表示。
階段上り口にて。
跨線橋内部のようす。興味深いことに、 床面のタイルにはところどころ馬のイラストの入ったタイルがはめ込まれてあった。
松阪方面に見た跨線橋。
階段脇から松阪方面を望む。
階段を降りたところから見た下り線ホーム。
旧改札口。
この駅のホームに降り立ったとき、まず駅舎に入ったが、すぐにぞっとした気分になった。 はっきり言っていい雰囲気ではない。とても悲しい、寂しい空気が漂っている。 確かに、たくさんの人がいるような気がするのに、どこを探しても誰もいない。 「え、なんで、こんななんだろう?」
駅舎内には明り取り窓があって、天井は高く、
天井の断面は台形になっていて妙にお洒落に造ってあるのに、
その台形の天井は白色の板張りの一方、周りの壁は木目調の板張り。なんともちぐはぐである。
木目調の板張りの壁も、一部分だけ色が変わっていたり、落書きがされたりで随分痛んでいた。
床面はコンクリートのままで、ほこりっぽく、
水色の長椅子と並んだ一人掛けの椅子が置かれていた。床面積だって、無人駅の割りには広かった。
外への広い間口からは、ときどき自動車の走行音が聞こえてきた。
駅舎内の風格と、間口の広さからして、今にもここに人が入って来そうな感じだったが、
自動車は通過するばかりで、人も歩いて来ず、誰もここには入ってこない。
しばらくして、ようやく、この駅はかつて繁栄に包まれていた駅だったんだな、と悟った。
旧改札口を望む。
開けられることのない出札口。
印象に残る水色の長椅子。海水浴客のことをふと思い出す。 奥の壁には身延線のポスターが貼ってあった。
上の水色の長椅子から見た駅舎内。
駅舎片面全景。左手に旧改札口。
回廊の下から。バスの待合所だったのだろうか。
駅の出入口前の回廊。
駅の入口から見た駅前の風景。
左:白い建物は病院。
右:遠くに大きな本屋が見える。
駅舎内に居たときから自動車の音が聞こえていたが、 それは駅のすぐ前の道を走る自動車の走行音ではなく、 ロータリーを挟んだ向こうの道を、自動車が通る音だった。 駅前は左斜め、正面、右斜めの三つの方向から駅に向かって道が集まってきていて、 この駅がかつてはかなり重要な存在であったことが窺い知れた。 自動車は今では、駅前を通過していくばかりになったようだった。 昭和18年まで存在した軽便鉄道である中勢鉄道の阿漕駅は、ここから離れた所に駅があり、 徒歩による連絡がなされていたというし、 戦前は近くの東洋紡績の引込線がこの駅から延び、貨物輸送も盛んだったという。
ロータリーから見た正面の道。すぐ先に交通量のとても多い国道23号(伊勢街道)がある。
振り返って阿漕駅駅舎を。
とても古そうな、大きな駅舎だった。戦災で失われた駅舎を昭和23年に再建したものだという。 かつてはもっと多くの人が毎朝この正面を見ながら駅まで来て、 中に入り汽車を待ったことだろう。
ロータリー右側にある阿漕駅駐輪所。 自転車のための細い通路の路面にはわざわざ矢印がペイントされてあった。
ロータリーの中央部の緑地帯には、 さほど形の凝っていない庭石がぽつんぽつんと配置され、 その奥に説明板があった。 それによると、ちょうどこの阿漕駅前のあたり一帯は、 太平洋戦争末期に激しい空襲を受け、 幾体もの死体が積み重なった所だという。 この緑地帯に配置されていた石は、弾痕を受けた塀の一部であった。 このロータリーが、寂しさの泉であるようだ。
左斜めから駅にやって来る道。こんなふうに三方から駅に向かって道が延びてきている。
駅舎前の横に長い階段は、 かつては利用者が様々な方向からやって来たことがうかがい知れる。
阿漕塚の伝説に加え、空襲による駅前での死体の積み重なり、そして紡績業の凋落などがこの駅の雰囲気を形作っていて、 寂しく、悲しく感じたのかもしれない。
駅舎。
晴れた冬の夕暮れの空の下で、駅舎のつくる、大きく伸ばされた弱い影を踏みながら、 はがきを持った小さな子どもと、そのお母さんが駅に向かって来た。 少し温かそうな恰好をした子どもは先に着いて投函口に手をかけたまま、 まだ少し離れて歩いてくるお母さんを見つめている。 今日は12月20日、もうすぐ一年が終わる。きっと年賀状を入れにきたのだろう。
ふと、この駅舎を、何の気なしに、捉えられるようになった気がした。 ただ寂しい、悲しいばかりではない。新しい人たちが、ここで新しい生活を営んでいる。
お二人とも、良いお年をお過ごしください。
伊勢地方への小さな旅─冬編 その1 |
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7(阿漕駅に降り立って:おわり)
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