Blotter

2022年5月9日 2022_05_09

個人サイトの行方―自らの行方

コロナ後遺症の中、久しぶりに自分の個人サイトを触る。サイトのコンテンツ作成はもうおこなっていない。下関駅のページはいつかに作っておいた分をupしただけだ。プログラムも1年以上触っていなかったが、自分のコードがわかりやすいおかげですぐ直せた。コードを見て、よくこんなことひとりでやっていたなと絶句した。要するにGUIを含めたディレクトリシステムを作ってあったのだ。そしてそのコードを見ながら、「もしこういうことをしたいのなら、すべてをなげうってこちらの方向に進むべき!」と、過去の自分に対し、まるで他人にするようにして檄を飛ばした。つまり、もはや趣味でこんなものを作る時代ではないのだ。別に自分がすごいんじゃなく、それくらい、昔はみんながプログラムに夢中で、レベルが高かったのである(1999~2000年代初頭、CGIではPerlの時代)。そんな時代なことを知る人も、もういない。
プログラムは奥が深くて、そんな簡単に極められるものではない、というのは、言語学をやった人なら想像がつくように、最終的には言語とハードを結び付けて作っていくところまで行くことになる。けれど、自分のしたいことが手軽にコードで実現できるので、もう自分はすっかり興味を失ってしまった。簡単にできてしまうことに、人は魅力を感じない。
個人サイトはもはや不要だ。今から4年位前までは、まだ個人サイトの可能性を自分は探っていたし、信じてもいた。しかしBuzzVideoやTikTokに夢中になっている僕からすれば、やはり個人サイトなんて恐ろしいほどの自作テクノロジーの塊である。人生で一ばんいいところ、一ばんおもしろいところ、そこだけを切り取って延々と見続けさせてくれればいい、みんなそう思っている。そしてそれでいいとも思う。 ブログや個人サイトでやっていたことは、YouTubeを越え、ショート動画というところで完成を見た。数十秒の動画で表現してしまうのだ。それ以外にどうしてほかの方法が必要だろう?

文章はもはや、こうした回顧の道具である。そして個人的な世界を構築してみせるための最も経済的な道具である。少なくともTikTokに回顧はない。あったとしても現在との比較である。そして古くなったショート動画は、誰にとっても不要となり、削除されよう(そのことに抗議する者もいまい。次々と新しい世代が投稿するのだから)。

YouTubeは見なくなって何年たつだろうか? あれほどおもしろくないものもないとも思う。つまりは、みんなが、稼ぐ、とか、金になる、とか、数字につながる、とか考えるようになると、つまんなくなるのは定めというものだろう。おまけに広告は何倍にも増え、ブロッカーなしに無料視聴はもはや不可である(有料会員になればいいだけではあるけど)。日本人はよく、日本は中抜き天国、トンネル会社多すぎというが、Googleの方がよっぽとかと思う―コンテンツを提供し続けることを要求されるという意味では。 YouTubeを見てわかるとおり、文章ではなく、語りの時代になった。つまり先祖返りしたわけだ。しかし人の内奥をえぐるような語りではなくて、現代らしいもっとライトなものだ。もともとすべては語りからはじまったのだから、別にこれは悪くない。ただ、このように目まぐるしく変わる社会で、それにもしついていこうとするなら、人々は相当のストレスを抱えることになるだろう。文章の時代だ、と、かつて文章を練ったブロガーたちは、とつぜん語りの練習をして、そして映像作成までやらなくてはならなくなるわけなのだから(そんな転向をしたのはまぁ自分自身なのだけど)。

しかし文章で表現できないことがほとんどな世の中で、もともと文章が不得手だった人には最高の舞台が開けたことになった。そして多くの人がノウハウや語りを披露し、多くの人にとって資するところとなった。これは実はちょっとした"イノベーション"である。
自分のサイトは、動画時代までの過渡期的なものなのだろう。音鉄、と呼ばれるものも、動画の前駆形態である。ただ、人に想像させるという点では、やはりそこには文学的な要素があろう。でもその時代に高画質で動画を取り廻せたかと言われれば、否である。そういう時代だったのだ。 鉄道ブームははや去りて、もう見向きもされない。駅巡りの旅をしていて、年を追うごとに鉄道旅をしている人が少なくなっていったことをよく覚えている。鉄道に魅力が失われていった。次々と決まる廃線、切符の廃止、値上げなど、良いニュースもない。廃止になるものや取り壊されるものを追いかける人生なんて嫌だと思い、しだいに距離を置いた。鉄道は鉄道でしかないし、そうした即物的なおもしろさではなく、より高次のものを支えにして生きてゆかなくてはならない時代になりつつあるということは、あまり注目されていない。自動車旅にせよ、ガソリンが上がればそれまでである。しょせん国に首根っこ握られた旅だ。日本はこの先当面は買いたいものがなかなか買えない生活になるが、娯楽を取られたときにどのようにして生きていくか、これはかなりに重要な問題である。畑でも耕し、家の掃除をし、本を読むのも、そんなに悪くはない。
しかし何よりも問題なのは、僕がそうした即物的なものを支えにしてしまっていたことなのだ。

2022年5月17日 2022_05_17

フリマ関係は発送サービスが多数ありすぎてイライラするので、条件ボタンを押せば自動で最安値の発送方法がわかるwebアプリを作った。そもそもサイズA4で厚み3センチ 以下の発送サービスが多すぎる。たぶんそのサイズまでなら二輪に多数積み込めるのだろう。しかし送りたいもののほとんどはそのサイズをオーバーするから腹が立つ。そもそもこんな細かい規約ばかりつけて狭い範囲でサービスを乱立させるのはいかにも非生産的だなと。それらをあたまのなかで比較している時間も無駄である。要は発送する企業側の力の方が強い状態なのだ。正直言って、クライアント側からしたら、配送業者の都合なんてどーでもいいのである。下手したらフリマに0円出品して特定の人のみに購入してもらうよう制限かけた方が送料が安く済むかもしれない。

それにしても長い間プログラムしてなかったのでめちゃくちゃ苦労した。歳のせいかもしれない…多重配列を幾重にも回していると何しているのかわからなくなってくる。今回はJavaScriptのみ。PHPを入れるほどでもないと思ったので…JSはオブジェクトにブラケット記法があるとか混乱のもとである。配列もオブジェクト的に扱えるので、オブジェクトを入れた変数名にarrと入れてしまう(よけわからなくなる)。なので、オブジェクトを入れた変数はかならずObjectとわかるように名前を付けましょう。 あと、for inやfor ofはその処理の順序がブラウザによって異なり、順番が担保されないというのは驚いた。だからね、もうみんなもね、すべてのプログラム言語に通ずる正式なfor文を使いましょうよ。結局すべてはfor文なのです。これを超える命令はあり得ません! PHP独特ののさまざまな命令も全部内部的にはfor文の積み重ねです。いろんな言語を同時にやらないのだから、移り変わりのないfor文使うのがいちばんいいっす。言語によって仕様が違うということもありません。

あと、JSの関数の矢印記法、きらい。関数もオブジェクトとして扱うからなんだけど、はっきり言って頭悪くなりそう。それにメンテナンス性が悪い。要は人間というのは、関数はオブジェクトとしてはとらえていない、というところが肝要なのである。この記法は視覚的にも問題が多い。 JSはわりとおもしろいからのめりこみやすいけど、ほんとプログラムなんてこの程度でいいんじゃなかろうか? どの言語をやってもたいして変わらない。というより、わかりやすく、メンテナンス性良く書かないと後で大変なことになる。高度に抽象化するのも問題。一人で組むんだったら、チョーわかりやすく書くのがいい。何年かたって見返すとき、なんだったかなと考える時間を無駄に取られなくて済む。わかりやすいけど、精密にできている、これが理想。なんでかって? 社会の移り変わりが激しく、しょっちゅう手を入れないといけないのが今の時代だから。 そして自分はjQueryが好きすぎる。あれは視覚的にもわかりやすい。Javaみたいなまどろっこしい命令文はため息しか出ない。なによりもつまらん。日本語は漢字を訓読みするから視覚的な言語。これは生産性が高い。