Blotter
個人サイトの意味―個人サイトとYourTuber そしてグローバリスト
保存とは何か
突然アカウントを消したり、ブロックされたりするのはSNSとしての常だろう。そしてアカウントが消されれば、データのすべては失われる。 あらかじめ断っておくと、増大するデータ量、その先にあるものは、無である。あまりにデータ量が多すぎて、あるいは大きすぎて、 第三者はおろか、本人ですら把握できなくなり、仮に必要とするデータがあったとしても、サルベージできなくなってしまうのだ。多すぎるデータは、美しさや豊かさではなく、無を表す。
数々の貴重なブログや個人サイトが消失したが、これらの"ロス"を乗り越えるには、「世の中というものはそんなふうに変わったんだ、残さなくしてよいし、残らなくてよい」そのように考えを変えることであった。 確かにそのほうが新しいことに挑戦しつづけざるを得ない。今はやりの自己啓発系にはもってこいの考え方だ。 何を隠そう、私もこの考え方に強制的に変更するようにしたことがあった。たとえ僕がどれほど数々のブログと個人サイトの存続と保存を願ったところで、可能なわけもないし、その労力は無駄というものだ。 社会の実勢に擦り合わせていく方が、賢く器用に生きていく方法だ。
しかしここ最近になって、それは誤りだったのではないかと思うようになった。人生は常にチャレンジだとか言うのはかっこいいし聞こえがいいが、はたしてここまで数年おきに物事が古くなり、 仕事の内容も変わり、そのたびに生じる無意味なフィッティングがはたして人生にとって有益なのか、と。仮にその仕事が貴方の働くべき年齢まで存続したとしよう。けれど、 そのときには必ず別の分野で何か新しいことが起こっていて、たいして重要視されない仕事となってしまっている。最近、自動車整備士や様々な専門職でなり手が少なくなっているとの話があるが、 次の世代によって冷徹に選別されているのだ。それに、誰しも病気になることはあるし、いつまでもチャレンジし続けられるわけもない。人生100年時代とか、 はっきり言うがウソである。60過ぎたらもうどこかしらいつも悪くしているものだ。70になったらもうわからない。80になってもかくしゃくとした政治家のような人ばかり取り上げられるが、 それは目立つからである。
ガイドラインから解放される個人サイトと利益の結果廃止されたサービス
政治家たちがツイッターをしはじめたときから、ずっとおかしいと思っていた。なぜ国家の人間が、どこぞやとも知れぬ外国民間企業のツールを使ってはばからないのだ、と。 DMなどしようものなら情報はダダ洩れだ。LINEもそうである。初めは国民との距離を縮める目的かと思っていたが、単にグローバリストに乗っ取られただけである。
僕はすべてを、他社のガイドラインに合わせざるを得ない媒体、あるいは、流れてきた情報やその量が自然なものなのか、意図的なものなのか気づかないことによる、洗脳されているとも気づかないような媒体に、自分の発信のすべてをゆだねることはしない。それが、僕が個人サイトを維持し続けてきた理由だ。たかが駅だ、旅行だ。しかし国民国家として、国民の財産として失われてはならない文化や施設を訪れれつづけてきたと思う。近代遺産ブームというのがあったが、それとて本質を突き詰めれば、無意識的にグローバリズムに対する抵抗を表していたのではなかったか? しかも!その当時多くの人々が「趣味」として訪れた記録の多くは、
もう各社の施策によって消され、見ることもできない。数々の人がどのような活動をしたか、それを証明することすら、困難になってしまっているのだ。
そう考えると、たとえ間接的にであり、国内のブログなどのホスティングサービスが終了した挙句、その内容まで消されたというのは、結果的にグローバリストたちの手先として暗躍した、といえるのである。
要は、儲かるかどうか、ではないということだ。そもそも会社は慈善事業ではないなどと中学生じみたことを言う輩が絶えないが、それなら自分の周りが金でしか動かない人間ばかりになったらどうか、とくと考えてみるとよい。
親はあなたから養育にかかった費用とその利子をすべて請求することなる。教師は自分の仕事以外のことには相手が生徒でも能面のような表情で対応しよう。要は愛着や文化がなければ、人は生きていけないのであり、
そこがAIとは違いでである。00年代に引きこもりが問題になり。メディアは恐ろしいほどにこぞって叩いたが、これは拝金思想が文化や愛着関係を破壊しはじめた証であると同時に、家庭内部からこの問題を浮き彫りにし、働いても意味がない社会にした責任をその上の世代が逃れ続けるためだったのだ。
会社は何よりも利益を生むかどうかが重要だと考えている人は、Amazonが企業後長らくとんでもない赤字だったのを知らない人たちであり、また、株主の利潤追求こそが会社の存在目的だとグローバリストによって洗脳された人たちである。あるいはそう思い込まなければ生きづらかったという人たちだ。もっというと、儲かっていればそれでいい、売れていればそれでいいというわけではないという、大問題を提起することになる。発がん性物質を入れた飲食物を打って莫大な利益を上げていても、それは肯定することはできないのだ。
悪は、悪と見定められる形態を持っていない
なぜ有名Youtuberが活躍しているのか、本質が見えていない。過激なことをしたから、ではない。彼らのあくどい性格もあって、結果的なこともかもしれないが、彼らは十分社会の闇を、勇気をもって暴き出した。おそらく、本人たちもそれほど意識していない。そこを意識しすぎると、稼げなくなるだろう。よく考えれば、最近の暴露系だってそうじゃないか。
けれど今暴露すべきは、そんなことではない。そもそも暴露する対象として認識されていない、SNSの仕組みそのものと、それによって生き方を変えさせられた人々のあり方そのものなのだ。だから結局SNSは社会的な活動として、何かを暴き、報道されないことを報道するという目的で使われるべきもので、そのときにすさまじい力を発揮する。だから日常の些細な事件であっても、それが正当に処理されていないとの報告は、いつでもバズっている。お笑いやコントだってそうだ。背後にあるのは全部「悪」である。それを笑いに変えているだけだ。あれだって暴露じゃないか。
悪は、はっきりと悪と見定められる性質を持っていないのがことを厄介にしている。SNSの「仕組み」や「機構」は、悪を生み出しやすい構造だ。悪とは別に未成年者略取でもなく、詐欺でもない。誤解とレッテル張りと、陥穽と誣告と、有名人や人を極度に信用するきらいと、問題の本質から永遠に外れた攻撃と、そして成功という言葉と、人生の消費と、本質を見誤って金銭を崇拝したこと、儲かっていればそれが正しいというラクな方向になびいて、政治が自分たちのコントロールの効かない遠いところに行ってしまったことを認めない人たちである。
欲望によって本質を見失わされ、その自分たちで自分たちを洗脳し終わったと気づいていない、そのことをもし悪として指摘されたら、「まさか自分が悪だとは思ってもみなかった」という驚きをもって受け取られるだろう。
本当の悪とはたいていそんなものなのだ。法律違反なんて、生易しいくらいなのだ。だって普通に働いて、イヤな思いもして、SNSに安らぎを得て、一所懸命生きているのに、なんでそれが悪なんだろう! ちょうど何気なく身近に飾っていた壺が、実は呪いのそれだったというような、そんな感覚だ。
断っておくが、善は取り扱い得ない。少なくとも、SNSのサービスは善意的に提供されはじめた。
僕には社会の闇に接するような快楽的な生き方をしなかったせいか、どちらかというと思索的なところに落ち着いた。強烈な理不尽さに対抗するというより、さっさと離れてきた、という感じだろうか。対抗するほど価値のあるものなら喜んでそうしたいところだが、ゲーセンの闇なんて、考えなくても闇だとわかるんだからそもそも近づかないし、そもそもゲームそのものを僕はしない。損をしそうならすぐに頭を回してうまいこと断ってしまう。そう、こんな対処の仕方をする利口そうな大人こそ、悪なのかもしれない。
いずれにせよ、僕はたぶん個人サイトを偏愛している。毎年サーバとドメインに金も払ってるし、サーバのある程度の知識もあり、プログラミングもできる。逆に言えばこれらを知らなければ個人サイトの運用・管理はすっかり難しいものとなってしまった。前から言っているように、いわばロストテクノロジー化だ。検索したってWixやWordPressで作れとしか出てこないし。確かに時間的な制約は大きいし、扱うデータ量も00年代とは比較にならない。とてもではないが、こんな不器用なやり方をどうして人に勧められるだろうか? けれど完全に自由な世界だし、気軽にアカウントを削除することもない。ここはまぁ、家のようなものだ。ホームページ。昔からそういうよね。そういう自分を省みるて世界を静かに俯瞰する根拠地のようなものが、多くの人に必要なんじゃなかろうか。